ビールで喉を潤した轟教授は話を続けた。


「東路軍は壱岐島で軍義を行った。
連日の戦況不利に加え、この島で江南軍と合流する期限の6月15日を過ぎても現れず、東路軍内で疫病が蔓延して3000余人もの死者を出す等として進退極まっていたのでした。
東路軍司令官の東征都元帥・ヒンドゥ、洪茶丘らは撤退の是非を征日本都元帥・金方慶と何回も議論した。
しかし、皇帝の命令で用意した兵糧はまだ1月分残っているから、南軍が来るのを待つということになったんだ。」

ここで轟教授は今まで取り出して参考に見ていた手帳をめくって、言葉を続けた。

「一方、江南軍は当初の計画と異なって、東路軍が待つ壱岐島には向かわず、嵐で元朝領内に遭難した日本船の船頭に描かせた日本地図で平戸島が太宰府に近く、周囲を海に囲まれ、軍艦を停泊させるのに便利で、かつ日本軍が防備を固めておらず、ここから東路軍と合流して太宰府を目指して攻め込むと有利という情報を得ていたからなのだ。
江南軍の出航日時は定かではないが、総司令官の交代等のごたごたがあり、6月18日以降に出たようだ。
6月下旬、慶元(寧波)・定海等から出航した江南軍主力は7昼夜かけて平戸島と鷹島に到着した。
都元帥・張禧率いる4000人の軍勢は平戸島に上陸して、塁を築き日本軍の襲来に備えて艦船を風浪に備えて50歩の間隔で平戸島周辺に停泊させた。
6月29日、壱岐島の東路軍に対して日本軍は松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏等の数万の軍勢が総攻撃を開始したんだ。
壱岐島の戦いは熾烈を極め、東路軍は江南軍が平戸島に到着したという知らせを受けて、壱岐島を放棄して江南軍と合流する為に平戸島に向けて出航した。
日本軍はこの戦いで、前の鎮西奉行・少弍資能が負傷し、息子の少弍資時が戦死する等の被害を受けている。
東路軍は平戸島の江南軍と合流して、平戸島に少しの守り兵を置いて鷹島の江南軍と合流した。
日本軍は7月27日鷹島沖に停泊している元軍艦船隊に対して、集結した日本軍船が攻撃を仕掛け、海戦となった。
戦闘は日中から夜明けまで長時間の戦いとなり、夜明と共に日本軍は引き上げるという能動的だった。
元軍は合流して太宰府を目指すと計画したものの、九州本土に上陸することを躊躇して鷹島で進軍を停止したのだ。
鷹島に駐留した元軍は土塁を築く等して、日本軍の鷹島上陸に備えた。
また元軍は船を縛って砦として、池州総把・マハマド(馬馬)に守備させた。
一方、日本軍では六波羅探題から派遣された後の引付衆・宇都宮貞綱率いる60000余騎とも言われる大軍が北九州の戦場目掛けて進行中であった。
しかし、彼らが到着する前の7月30日夜半台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊する等して大損害を被った。」

  神風(台風)

「本当に神風が吹いたんですね!」

「元軍は日本を目指して出航して約3ヶ月、博多湾に侵入して戦いが始まって約2ヶ月経っていた、それも真夏のことだから、台風は偶然興ったものではなく、自然現象といえるだろう。
この台風で元軍が受けた被害は軍団のいた場所で異なっていたようだ。
記録はまちまちで、元軍艦4000隻のうちに残ったのは200隻と書かれたものもあれば、東路軍の高麗船900隻については200隻が残ったとも伝えられているものもある。
言えることは、高麗で造られた軍船は割りと頑丈で、江南船は弱かったと思えることと、司令官の注意が大いに被害を左右したと思えることなんだ。
鷹島に駐留していた江南軍の船は壊滅的な損害を受けている。
理由は台風がどうも鷹島を直撃したことと、船の係留に注意していなかったことにより、船同士がぶつかり合って、沈没したということのようだ。
それに対して、平戸島に駐留していた東路軍の船は係留に注意していた為に互いにぶつかることがなく、しかも、高麗船だった為に被害が少なかったようである。
なぜそんなことが分かるかというと、鷹島回りに多くの元軍艦が沈んだ船の残骸に残された陶磁器が江南地方の物で、高麗産の物は出ないということで分かるのだよ。」

「鷹島回りの水中考古学ですね。」

「元軍の被害は捕虜、戦死、病死、溺死を除く高麗兵と東路軍の水夫の生還率は7割を越えていたそうだ。
閏7月5日、江南軍司令官の右丞・范文虎と都元帥・張禧等諸将との間で戦闘を続行するか帰還するかの議論をしている。
議論の末、帰還の罪は范文虎が全て受けるという主張が通り、元軍は撤退することになったと伝えられている。
元の諸将達は頑丈な船から兵卒達を無理やり降ろさせて、乗り込み、鷹島の西の浦より、兵卒10余万を見捨てて逃亡したんだ。
平戸島では、張禧が軍船から軍馬70頭を降ろして、平戸島に捨てて、軍勢4000人を船に収容して帰還したようだ。
帰還後、范文虎は敗戦により罰せられたが、張禧は部下を見捨てなかったことで罰せられることはなかったと伝えている。
日本軍は閏7月5日、伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始している。
午後6時頃、御厨(みくりや)海上で軍船に総攻撃をして、結果伊万里湾から元軍の船をほぼ一掃している。
次に日本軍は鷹島に籠る元軍10余万と元軍の軍船の壊滅を目指した。
閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始した。
鷹島に四方八方から上陸して攻撃し、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍と交戦があり、全ての元軍の船を焼き払ったのだよ。
この鷹島総攻撃で、10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,000から30,000人の元の兵士を捕虜にしたそうな。
日本軍は捕虜にした元軍の兵士達を博多に連れて帰り、モンゴル、高麗人および漢人の捕虜は殺害したが、交流のあった旧南宋人の捕虜は命を助け、奴隷にしたと伝えられている。
彼らの多くは、工匠や農事に知識のある者が多かったと言われている。
元軍の内に帰還できた兵士は、『元史』の中でも全軍の1~4割と格差が見られる。
元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も相当数が破損されたと書かれている。
まあ、こんなところだ。」

「教授、有難う御座いました。
大変勉強になりました。」

                                                                                        (つづく)