一口刺身を食べて杯の酒を飲み干した轟教授は、又口を開いた。

「この文永の役の翌年、4月15日に杜世忠(と・せいちゅう)を正使とした元の使い一行が再び日本にやって来た。
しかも今度は博多ではなくて、長門の室津に上陸して来たのだよ。
一行5名の使者達は太宰府に送られ、さらに鎌倉の幕府に送られて、龍ノ口(たつのくち)で全員処刑されたのだよ。
外交使節団を斬ってしまうとは当時としても異常な出来事だったんだ。
このことはまだ若き執権北条時宗の断固たる決意があったんだね。
更に1279年6月に、周福(しゅう・ふく)を正使とする一行を今度は博多で全員斬り捨てている。
船員達が高麗に戻り、使者達が処刑されたことを知った元のクビライは宋の名将范文虎(はん・ぶんこ)に相談して、日本遠征の準備をちゃくちゃくと進めて行ったのだよ。」

「蒙古軍は再度日本攻略を目指して準備を進めたでしょうね?」

「そう、クビライは杜世忠の帰りを待つ一方、出兵準備を開始した。
しかし、高麗国は文永の役で元・高麗軍の人的被害は13500余人もの戦死者を出し、無理して900艘の船を造って、その上、日本侵攻の費用を出して、高麗国は疲弊しきっていたのだよ。
1279年2月、クビライは揚州、湖南、韓州、泉州四省において戦艦600艘の建造を命じ、その内、200艘の建造をアラブ系イスラム教徒の色目人・蒲寿庚(ほじゅこう)に命じた。
そして、済州島から軍船建造の木材3,000隻分を供出させるとともに6月には900艘の造船を高麗に命じた。
しかし、建造は思うように進まず、造船に従事した民が実に難苦しているという上奏に建造を中止させたものもあり、建造している民が疲弊している中、多くの側近がクビライの日本侵攻を諌言したが8月、逃げ帰って来た船頭から杜世忠等の処刑を知らされたクビライは血気流行る臣下を抑えて、1280年頃、『日本行省を設置して日本侵攻軍の司令部を置いたのだよ。」

「そして弘安の役が始まるのですね!」

「そう、1281年(弘安4年)、元、高麗軍を主力とした東路軍約40,000万から56,989人・軍船900艘と旧南宋軍約100,000人および江南水夫(人数不明)軍船3500艘、両軍合計、約140,000から156,989人および江南水夫(人数不明)・軍船4400艘の軍が日本に向けて出航したんだよ。
これは世界史上例をみない世界最大規模の艦隊だったんだ。
高麗人の禅僧・冲止は『一瞬の内に日本侵軍を撃ち破り勝報は朝夕の内に伝わるだろう』と詠んでいる。」

「もの凄い軍勢ですね!」

「両軍は6月15日までに壱岐島で合流し、両軍で太宰府を攻める計画を立てて、まず5月3日に東路軍が出発した。
5月21日、対馬沖に到着、5月26日に壱岐島に到着。
どちらの島でも抵抗を受けて被害を出している。
対馬では激しい抵抗を受け、郎将等が戦死している。
壱岐島では暴風雨に遭遇して兵士113人、水夫36人の行方不明者を出すなどの事態になり、一部は長門にも襲来している。
東路軍は捕まえた対馬や壱岐島の住民から、博多が防備が手薄との情報を得て、初めの計画の江南軍の到着を待たずに博多に侵攻したんだ。
ところが、日本側は既に防御態勢を整えていて、博多湾岸に20kmに亘り、石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せた為に、東路軍は博多からの上陸を断念した。
日本軍の中には防塁の外に出て戦う者もいて、血気盛んだった。
この石築地は最も頑強な部分で高さ3m、幅2m以上と言われていて、日本側の守備する方からは騎乗しながら、駆け上がるように土盛りがされて、海側には浜辺方面に乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)等の上陸妨害物を設置していたんだな。」

  元寇防塁

「凄い防御設備ですね!」

「そう、東路軍は博多に直接上陸することを諦めて、6月6日、陸繋島である志賀島に上陸して占領した。
そして、志賀島周辺を軍艦の停泊地にしたんだ。
この日の夜半、日本軍の一部の武士達が、この東路軍の軍艦に夜襲をかけて、戦い、夜が明けると、引き上げていた。
6月8日午前10時頃、日本軍は二手に分かれ、海路と海の中道伝いの陸路の両面から志賀島の東路軍に対して、総攻撃を敢行した。
陸路から攻めた日本軍に対向して東路軍の菅軍上百戸・張成らは船を降りて、兵隊を率いて日本軍と交戦した。
彼らは日本軍に300人程の損害を与えたが、日本軍の攻勢に抗しきれず、逃げ出したのだよ。
東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘は馬を捨てて敗走していたが、日本軍の追撃を受けて、討ち死に寸前までに追い込まれたが、菅軍万戸の王某の軍勢に助けられたのだよ。
海路から東路軍を伊予の御家人の河野通有や肥後の竹崎季長、肥前の福田兼重、福田兼光父子等の御家人等も参加して活躍している。
6月9日、東路軍は防御に徹して陣を固め、奮闘した。
しかしこの日も東路軍は敗戦を重ねた。
この志賀島での戦いに大敗した東路軍は壱岐島へと後退したんだ。」

「教授、ビールで喉を潤して下さい。」

と恭子がビールを注いだ。

                                                                                       (つづく)