国命は弟達を連れて太宰府政庁の帥に挨拶をする為に訪れていた。
新任の帥は国命達に言った。

「謝太郎国命よ、この博多の特産品は何があるのか?」

「博多の町の特産品は今のところ特別な物はありません。」

「さようか、私がこの太宰の帥として赴任している間に何か博多の特産品を作りたいものだ。」

「分かりました。
心掛けておきます。」

再度南宋に行っていた聖一国師が帰って来た。
国命が袖の港に出迎えに出ると、聖一国師は一人の男と一緒に降りて来た。
何処かで見覚えのある顔だった。

「国ちゃん、久しぶりですね!」

とニコニコして両手を広げて近寄って来た。

「あっ、牛蔵か?」

「南宋に渡っておりました。
ただ今、国師様と一緒に戻りました。」

国命が小呂島からこの博多に連れて来られて直ぐに通っていた寺子屋時代に喧嘩していた相手だった。
本名を満田弥三右衛門と言い、博多の純粋な倭国の民で家は商人をしていたのでした。

「長い間南宋で何をしていたのだ?」

「うん、絹織物の技術を習っていたんだ。」

「絹織物?」

「国命殿、私から、貴方に頼もうと思っていたところでした。
この満田殿は素晴らしい絹織物を織る技術を身につけられました。
この技術を使いこの博多で絹織物を製作すると、きっと、博多の名物になるでしょう。
国命殿が絹の仕入、絹織物の販売をやってはくれませんか?」

と聖一国師が頼んだ。

「分かりました。
太宰の帥様からも博多の名物を作る様に頼まれていたところでしたので、丁度良かったです。
国継、そなたが担当して弥三右衛門殿の手助けをしてくれ、お前も弥三殿は知っているだろう!」

国継は博多綱首の地所の一角に織物小屋を造営して弥三右衛門に手代の数名を付けて、絹織物を製作させ始めました。
これが江戸時代に飛躍的に全国に知れ渡る様になる博多織でした。
この頃、博多の住民達は毎夏の7月になると、聖一国師が疫病退散を祈願して行った施餓鬼棚に乗って祈祷水をまいたのを真似て、各町でその除去祈祷を行っていた。
始めは承天寺にお参りしてから行っていたのだが、聖一国師から、願い事は土地の氏神様にするように言われて、櫛田神社にお願いするようになったのでした。
これが700年以上、現世まで続く博多祇園山笠の発祥でした。

   博多祇園山笠流れがき櫛田入り

博多綱首の所有する交易船が袖の港に帰港する度に国命の元に中国大陸や朝鮮半島の情勢がもたらされていました。
その報告を総合すると中国の南宋の力が弱り、群雄割拠の様相を呈して来ていた。
蒙古から出たジンギス・カンの孫のクビライの元が暴れ回るのは、国命が現世で見聞きしていた限りでは確か1260年にモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したはずだったから、数年後であった。
今の博多網首の時代は1257年の秋であった。
そろそろ、太宰の帥に元が攻めて来ることを知らせて、博多の町を護る備えさせねばならないと国命は思っていたのでした。
そんなある日、博多網首の所有する船が韓国全羅南道木浦新任安の沖で神風にあい、沈没するという海南事故が阿曇族から報告を受けたのでした。
その船には末の弟の国末が乗船していたのでした。
この訃報は博多網首に重い悲しみをもたらせたのでした。
国末は妻の烏里との間に二人の女の子供がいました。
烏里は哀しみの余り、尼として出家して大宰府の庵にこもり、二人の子供は国命夫婦が面倒をみることになったのでした。
国命には長女の鈴の下に無事に長男の国世が誕生していましたので、4人の子供達を育てることになっていたのでした。

                                                                                      (つづく)