春の始め頃、まだ菜の花が咲ききらない頃、卑弥呼はクキとノスの船で邪馬台国建設の最適地を探す為に船出しました。

建設に従事する生口や職人や、それらを取り締まる一大卒の兵士達も別の船に乗って従いました。
ムラジもハル、イヨ達もクキに従って同行しました。
行き先は、卑弥呼に降りる神託に従うということでしたが、神託を受けたのは、実はイヨだったのでした。
ノスの船は東北を目指して日本海を北上しました。
玄海灘を東北に進み、響灘の男島沖に来た時に卑弥呼は迷いました。
このまま北上するのか、それとも関門海峡に入るのかと迷ったのでした。
卑弥呼はクキに相談してイヨを呼んで、神伺いをしたら、そのまま日本海を北上しろと神託が降りたのでした。
山口の角島沖に出て青海島に寄港して、阿曇族の仲間である山窩(さんが)に連絡を取りこの辺りの情報を訊きました。
山窩とは阿曇族の一部が船を作る為の木材を求めて山に入り住み着くようになった同族で、当時はこの山窩の通信網の情報はとても重要なものだったのでした。
この辺りには国造りに向いた土地は無いということで、船は更に北上して行きました。
浜田を通過して江津で出会った山窩からの情報と、イヨに降りた神託が一致した場所が見付かりました。
大田沖に停泊して、三瓶山の山窩に情報を貰いやっと最適な場所が見つかったのでした。
志賀島の弘村を出て10日目のことでした。
職人や生口、一大卒の兵隊達を残して卑弥呼達は倭国連合に戻りました。
3ヶ月後を目処にここに邪馬台国が成立することになったのでした。
倭国連合からは次々に物資や食料人員が、阿曇族の船で送り込まれて行きました。
そんなある日ムラジは父親のノスとクキに呼ばれて言われました。

「ムラジ、お前は今日から私の召し使いを卒業して、親父さんに着いて船の操縦技術を学ぶんだ。
良いか、そして良い阿曇族の船頭に成るんだ。
これからは、倭国連合と邪馬台国との往復の船が多く必用になるから、早く一人前の船頭に成るんだ!
いいな!」

「お前は明日から能古島の阿曇族の部落に行き、体に刺青を入れてもらって来なさい。
船頭は刺青を入れておかないと、船が難破した時などに、海を泳ぐことがあるので、鮫の餌食にならないように魔除けが必要なんだ。
解ったか?」

「はい、解りました。」

こうして、ムラジは1ヶ月余りの苦しい痛みの洗礼を受けたのでした。

  能古島(博多湾内にある)

ムラジが父親のノスの船に戻ると、何往復もの倭国連合から邪馬台国への航海が待っていたのでした。
ノスはムラジを何時も横において、航海術を教え込んで行きました。
一年後、邪馬台国建設は完了して、正式に卑弥呼は邪馬台国に移って行ったのでした。
その後も、倭国連合から邪馬台国への食料品や物資の運搬は続けられて行きました。
何しろ、邪馬台国には農民が居らず、畑もなかったのでした。
邪馬台国の食国(おすくに)は倭国連合だったから、食料等の運搬は欠かせないことだったのでした。
ムラジも志賀島の叶崎族長から船を一隻与えられて、船長になって、父親のノスと伴に阿曇族の立派な男になっていたのでした。

西暦240年のある日、突然ムラジは一大卒のウシ王に呼びつけられて、漢からの使者の相手を命じられたのでした。
それは、魏の使者で建忠校慰(けんちゅうこうい)の悌儁(ていしゅん)という人間だった。
ムラジは韓国語と中国の漢語が少し話せたから、ウシ王から相談されたクキが選んだのでした。
ウシ王からは、この使者を邪馬台国に行かせるな、国の事情は余り詳しく話すな、という指令を出されていたのでした。
つまり、興味津々の悌儁の話相手になり、お茶を濁して追い返す役だったのでした。

悌儁に伊都国の志登村の外国人迎賓館で会って話をした。

「お使者の建忠校慰の悌儁様、私は倭国連合の阿曇族の船頭長のムラジと言います。
何かお訊きになりたいことがあるということをお訊き致しまして、知っていることを全て話せとの一大卒様からの命令を受けまして、まかり出ました。
宜しくお願いいたします。」

とたどたどしい漢語で挨拶をした。

「これは嬉しいですね、漢語を話す方にお会いできるとは、幸運ですね。
韓国語での話しか出来ないかと、覚悟していたのですが。
私は東北の国々を調査するように魏の王命で使者として来た悌儁と言います。
宜しくお願いいたします。
色々訊きたいことがあるので教えて下さい。」

「解りました。
私の解る範囲内のことでしたら。何でもお話します。」

「先ず、お訊きたいことは、この倭国連合の構成に着いて教えて下さい。」

「はい、倭国連合とはこの地方の奴国、伊都国を中心にした数十ヶ国のことです。」

「どの国が一番大きい国ですか?」

「この倭国連合をまとめる国として邪馬台国が別にあります。
倭国連合はその邪馬台国の食国なのです。
邪馬台国には卑弥呼という女王がおられて、鬼道で神の神託を得て、この倭国連合を治めておられます。」

「邪馬台国というのは何処にあるのですか?」

「場所の名前は言われません。
秘密です。」

「そうですか、それでは場所の名前は言わなくてけっこうですから、行き方を教えてくれませんか?」

「解りました。
この伊都国から東南に100里、奴国に至ります。
奴国から東に100里不彌国があります。
ここ伊都国の唐泊から私達が船で行くときは、南に行き奴国の那の津で荷物を積んで、水行で10日位で邪馬台国に着きます。
陸行だと南の日向峠を回って行き1ヶ月位はかかります。」

「解りました。
水行10日、陸行1ヶ月かかるのですね!」

「はい、私は何時も船で通っております。」

「それでは私をその船に乗せて行ってくれませんか?」

「邪馬台国に入るには、一大卒様の許可が無いと、誰も入ることが出来ません。
一大卒様の許可が出れば、乗せて行くことは出来ます。」

「解りました。
一大卒様に頼んでみます。
それから、この倭国連合の国々のことを教えてくれませんか?」

「はい何なりと、どうぞ。」

「先ず、この伊都国には、柄渠觚(へごこ・行政長官)、泄謨觚(せもこ・税関、検疫所)、大倭、一大卒が置かれています。
ここの伊都国の国王様が兼務されています。
奴国には、二万余戸の国民が住まい、水田で稲作が盛んで、青銅器の製作も行われています。
私もこの奴国の志賀島に住んでおります。」

と、ムラジは時間の赦す限り倭国連合のことを説明したのでした。
この使者の悌儁は約1ヶ月この迎賓館に滞在して、一大卒からの邪馬台国参入を目指したが、ついに許可は降りず、諦めて帰国したのでした。
有名な魏志倭人伝を書いた陳寿(ちんじゅ)は倭国には来ていなくて、この悌儁の記録をもとにして書いたものでした。

                                                                                 (つづく).