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イワレは、この強大になつた大和国の王となりましたが、まだ、東征前の誓いである、北部九州統一は出来ずにいました。
ただ、クカミと阿曇族の力を借りて、南韓国の洛東江支流の南江に位置する狗邪韓国の蔚山で、製鉄させて、鉄鉱石ではなく、鉄の塊として阿曇族に運ばせて、吉備の造る玉鋼(たまはがね)と合わせて強靭な武器の製産に成功していました。

出雲国との戦いの翌年、イワレは病死しました。
結局、イワレは自分の手では父王達の怨みを晴らすことは出来ず、後日、五世紀の初頭になつて、不彌国を取り込んで出来た磐井(いわい)が、大和朝廷の朝鮮出兵に際し、反旗をひるがえし、争乱となつた「筑紫君磐井の乱」(※135)で大和朝廷の命を受けた物部氏によつて戦に負けて消滅し、この時、伊都国の末裔で、耶馬台国の守備隊司令官の伊都之尾羽張(いとのおばねばり)の子孫である羽白熊鷲(はしろくまわし)が、雷山の神籠石の近くで討伐され、伊都国も一緒に滅亡したのでした。


イワレの正しい本名は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)と言つて、神武天皇(じんむてんのう)と名乗られるのは、奈良時代に編纂された、日本書紀によつて初代天皇とされた時からでした。

イワレの死後、妻のチルは長男オオクニ(※ト)の王位継承を見届けると、九州征服と、義兄クカミのその後の調査を、と言う夫の意志を遺言として伝えると、イワレの後を追うように、この世を去つたのでした。

大和国の王となつたオオクニは、東方諸国の平定と守りをヒクミに任せ、自分は前王からの遺言を実行すべく動きました。
まず、伯父のクカミの行方を捜しました。
阿曇族の伝手をたどつて、やつと宗像大島迄、たどり着き、ここの部族長と面談しました。

「族長殿、私はオオクニと言つて大和国の王ですが、父王の遺言で伯父のクカミ様を捜しに来ました。
こちらにおられると聞いて来たのですが、どうかクカミ伯父に会わせてくれませんか?」

と頼みました。

「よくぞ、こんな遠く迄、王様がわざわざおこし下さいまして恐縮しております。 
確かにクカミ様はこちらにおられました。
この阿曇族のなかに紛れておいででしたクカミ様を私共は、みんな親以上に慕つておりましたが、ある時、クカミ様は、卑弥呼女王様と十四人の助祭神様や侍女達を連れてこられ、この島の中津宮に館を建てられまして、三年間程暮らしておられましたが、どうしても南の国にあるという楽園に行くのだとおつしやつて、私共が用意した船と船頭達と一緒に、夏の終わりに出航なされました。
まず沖ノ島に向われたことは判つておりますが、その後のことは判りかねます。」

族長は、丁寧に事の次第を話しました。

「沖ノ島にはなんの為に行つたのですか?」

「私共阿曇族は、志賀海神社の綿津見之大神様をお祀りして来ましたが、和珥族に乗つ取られてからは、沖ノ島に神座されていると伝えられて来た綿津見之大神様の親神様と言われているイザナギ、イザナミの二つ神様を信仰して、毎年祭りをしております。だから我々は遠くに船出する時はまず、沖ノ島に寄つて祭りをして航海の安全を祈ってから出掛けることにしていますので、必ず寄つたと思つています。」

「良く判りました。
それでは私達を沖ノ島まで連れて行つてくださいませんか?」

「いいですとも、御案内させましよう。」

                  (つづく)


《登場人物の説明》

※ト)オオクニ………イワレとチルとの長男、大和国の二代目王


《用語解説》

※135)筑紫君磐井の乱(ちくしのきみいわいのらん)……六世紀前半、継体天皇の時代に筑紫国造磐井が
                                           北九州に起こした反乱、大和朝廷の朝鮮出兵の失敗によつて、負担の大きくなつた北                                             九州地方の不満を代表したものと見られ、新羅と通謀したともいう。物部氏らによつ                                             て平定。福岡県八女市の岩戸山古墳は磐井の墓と伝える。[広辞苑より]