長尾景連(ながお かげつら) 長尾弾正忠号謙忠(けんちゅう)さんの祠
名はかげのぶとも聞く、けんちゅうさんと言われている。
 弾正忠だんじょうのじょう入道号謙忠
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 本来最初に行くべき景連の塚 厩橋城からその骸は心ある人々によって祀られる、
昭和になり、故齋藤様によって 今の場所に祠を造りそして、斎藤様から想いとともに受け継がれた方によって供養されていた。
元は昭和二十二年まで 今の場所から小川を下り流れが緩み瀬になるあたりの川土手に埋葬されていた。
  住職様が変わり、供養に来られなくなったと聞きました。この先もその祠は残るのかと少し不安でもあったが 先日供養を受け継がれた方に会い安堵した。手厚く供養されている、私は花を供えて手を合わすことしかできない。
長尾為重から景連、そしてその子は伯耆に移り住む。
その子孫は、数家に分かれて生き抜いてる。
 子孫家は多くを語らない 景連の子景孝の子供三人の末裔、各本家筋も、この子孫として公に話すことはしていない。
  江戸時代以後明治から近年に不幸な事、またその他にもあり景孝次男景貞家子孫も由緒については多く語りません。
  当家もこうした先祖についての事は一切語ることはありません。
  この景連の塚 お杉さまについては 今供養されている方が語り次いでいただければと思う。 
  子孫本家の方に、お杉さまの話をしたことが有りますが、その場所で多くの方に親しまれているから、今の場所が良いのではかと言われた。
私もそう思います。
首から上の病にその効力あると言われる 私も昨年病気をした、お参りさせて頂きました。
  
  作家の方でこの長尾景連謙忠について何やら書物を書かれているような物もある。
 謙信信仰ではないかと思う。
  
  身分制度他身内の経過他出来事には話せない事も多い、本家とは言いながら血縁関係は複雑であったりする。
  そして伯耆には、この子孫家と御舘の乱以後他家に仕え名を変え、同じく伯耆に移り住む一族もある。子孫家はその親戚が皆助け合い暮らした。
  
 作家の方が今読者が何を望んでいるかを考え執筆すると言ったが、創作部分が多くなると感じた。
  実際に史実は判らないけど、思うことを最後に記載してみる

 長尾景連 謙忠は 長尾景虎を裏切っていない そして景虎も家臣数百か二千と言わるが、非道で斬首しないと思う。

  血の中にそうした潔癖症からくる、疑心や葛藤もあると思う。止まれなくなる怒りで、そうなってしまう。癇癪持ちなんだと思います。私もそうですが、情は深く強いと思う。

越後からの脱出は、北条高広などが手配したと思う。御舘の乱の時に伯耆に移動した一族も居る。滝川一益に仕えて池田家や他織田豊臣の臣下となる一族、伯耆の一族にはその豊臣徳川の朱印状が残る。
そして江戸時代伯耆に移り住む。
北条高広は景連の子景孝が伯耆にいることも当然知っていた、御舘の乱以後、越後の長尾一族は同じ地に移り住むことになった。
  そうして豪商となったのが長尾屋 そしてその中の一族に為景を祖として伝わる家がある。
ただ皆家族縁戚である、その中から当主も決める
  そして江戸時代に越後から逃れて名を変えていた一族を長尾に戻し、また苗字帯刀御免となるため以前に変えた名を一人が名乗る。
  この書物池田伯耆守への感謝とともに書かれた長尾家の書は、実物を見ているので間違いない。しかしそれを現在誰が持っているとか、どこにあるとかは、私自身墓まで持って行くべきと思っている。子孫家の墓所についても同様、新三郎景明の墓も景孝の墓も景賢の墓も同様。
  本家筋で供養される方のみ知っていればいいと思う。創作になっても困るし、跡取りが無くなればそこで言い伝えも終わり。
  
  先祖 親そのまた親そのまた親が先祖、家を継ぐなどの事情で養子ももありますが。
途絶えたら終わりで良い。
  ただお杉さんは残ってほしい。
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偶然通りかかった 妻女山 
  若い景虎の指南もしたと思う 蔵王堂城から越後統一そして関東進出の大将として厩橋城主になるがこの川中島の翌年ほぼ夏前
  斬首される
 
 
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厩橋城 おそらくこのあたりが西の丸か、創作書物より。
何度も流れてしまったと聞く 江戸時代の改修前の図面に西の丸が見当たらなかった
 
永禄五年五月十日 川中島の翌年 景連誅殺  

  長尾景虎 謙信は 従兄の景連を山根の砦、攻略に同行しなかったため謀反を疑う。
切腹だったか 誅殺となっているものと切腹となっているものがある
 
この塚と元あった場所 厩橋城 そしてもう一つの塚を探す内、急に状況が浮かぶ、憶測とかではなく、脳裏にいきなりその様子を感じる。
 
謙信が山根の砦を攻めると出陣した時、当然景連も出陣した、いや出来なかった。出陣しようとしたとき、家臣の一部が西の丸に立てこもる 理由は数万の北条武田の連合軍に勝てないと思った家臣もしくは関東の協力部隊 これが500か2000人だったのか 景連はいけなかった。 そして援軍のない謙信は苦労して山根の砦を落とし厩橋城に帰ってくる。 問答無用だったか長尾家の血がそうするだろう、責任を取れと景連(謙忠)に切腹を命じる。河田他がその役目を受けたと書かれた書物もあった。
そして景連の死を確認した謙信は西の丸の家臣を許さなかった、私もそうする、若い頃から一緒に戦い、関東方面の大将にしていた謙忠を今からと言う時に、身内を斬首しなくてはいけなかった。怒りの矛先は家臣に向けられる。
そして記録にある誅殺は行われる。景連(謙忠)妻子は逸話にある資金を受け取り、前橋また越後から離れる。これなら全て納得できる。謙信が景連の妻子を逃がすのも、家臣の多くを誅殺するのも、景連の切腹も理解できる。 上杉家文書に 蔵王権現の修復がこの永禄5年9月だったか謙信が命じている(長岡の蔵王かどうかは不明)。
古志栖吉長尾家の支配地を任された為重景連親子は、三条長尾家の越後長尾家が代々信仰したのかもしれない蔵王権現や法華宗を大切にした。
  
 前橋の謙忠塚、
近くにあった塚を現在の場所に移された
無くしてはいけないと 斎藤様は自宅の横に塚を移す もう一つの塚も探された

  故斎藤様は今供養を受け継がれた方に、無実だと裏切りは無かったと、強くその想いを伝えていた。

その想いは私にもしっかり届いた 
長尾景連 きっと穏やかだと思う 
  残してほしい 謙信身内ではなく その名を後世に語り継いでほしいもの
  
  越後蔵王堂城主長尾為重の子 厩橋城城主にまでなった 長尾景連 弾正忠謙忠
  越後長尾守護代家の将として
 

お杉さんと親しまれていた
 
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長尾景連の塚 私は花を手向けることしかできないが、やっと手を合わせることができた。
器と花の水は 子孫が暮らす伯耆大山の水を使った。
 小さな川の近くにあった塚を昭和20年代に道路か河川の改修かは不明だが、遺していかねばならないと思われ、自宅の横に祠を建て供養された。そして引き継がれた方に、強く言い伝えられたのは 景連(謙忠)は裏切っていないと伝わると言うこと。
そのことはしっかり 今 塚を守られている方に伝わり、謀反は無かったと思う私にも、そのことをしっかり伝えていただいた。子孫家が今 公に表立っては活動しない内容もお伝えし、今この塚を守られている方にこそ、その言い伝えを話していただきたいと思う。
またいつか手を合わせに行きたい。
 
もう一つの塚は龍海院には無いと思う 本堂の裏に それらしきとは聞いたが 違うと思う 永禄からあったお寺ではない、江戸時代に他の国から移したお寺なので、そもそも本堂の裏に残すことはしないだろう。少し離れた場所で間違いないと思う。おそらく私が思う場所に今もあるかもしれない、いつかまた行ったときに確認したい
 
撮影平成30年4月20日~21日 
 
私のブログまたホームページを見た作家か? 問い合わせには関係する関係家の場所 墓の場所など回答はしていません 
 
また私のブログやホームページを見て作家の資料に使うのは遠慮いただきたい
今 こうした内容が 歴史の物語としてとらえるか、推測を交えた歴史考証か また
悲惨な時代 日本人も戦争になれば相手の首を取る一族 ややこしい話として見るか
・・・そうした事は全く浮かばない 私は私に血縁を受け継ぐことが出来た神秘 先祖からの子孫を残す思いから生まれてきたのだと思いたい。ならば先祖をもう一度しっかり供養するべき勤めが、私にはあると思う。力なく何もできないが。
物語ではない、現実の世の中を生き抜いた先祖がいたから私がいる。大切にしたい。
手を合わせたい。
ヤフーブログから移動させたり、下書きをホームページから移動して文書が変になってました。
紅雲町今昔は、長尾謙忠と長野氏を間違えて記載
されたものである。謙信の従弟であるがと書かれているので、従弟は長尾景虎(謙信)の父為景の弟新二郎為重の子である、長尾景連(長尾謙忠)のことである。長野では無い。書物の間違いにはウンザリします。

  租の一人 長尾景連謙忠の塚 祠へたどり着く
  調査開始から1年後、子孫家の誰も知らなかったその場所に行くことが出来たのは、今の時代だから。
  そして、2016年7月20日、私の問い合わせに 丁寧に連絡頂き、この塚の事を教えていただいた深草様には感謝いたします。
  2018年には、私 翌年には、私に場所を教えてほしいと言われた、子孫家の御子息が、塚を訪ねることが出来た。
  次回行く時には、深草様にお会いしたと思う。
謙忠の塚は、本来別の場所に有ったが、斉藤様がこの場所に移され、お杉さんとして残る。
ここから移す事はしない方が良い、歴史的にも前橋にあるべきだ。厩橋城で誅殺の事実を残す為。
  この先、私の思いである、親の墓 (先祖) 関係する場所 為重 景久 景直 景信 他 訪ねてみたい。

景連の子新次郎景孝を祀る八幡宮と関係する八幡宮の近くには、長尾屋始祖と同じ時期に、由緒と同じ摂州から長尾直国兄弟、兄を祀る墓が有る、大きな石碑に、刻まれた文字から、おそらく大阪夏の陣、摂州から元和年間の移動とみえるが、今後の調査で関係が分かればと思う。