地名に学ぶ

―原発大事故をめぐって―


会長 若月紘一



 その地を印象づける高名の寺社や山や川、その他の自然地形をもって地名とする方式は、古くから重用されてきました。長岡を例に字相当の町名に焦点を絞れば、蔵王はその例に従います。長倉のクラは急峻なガケの存在を示唆しています。さらに比較的に新しい「信濃」が、信濃川に因むことに疑いはありません。 


 こうして地名につながった自然物、人工物は、ひとりの人間が感覚的に捉えうる時間の拡がりのなかで、永劫不動の存在でもありました。実際には、半世紀ほど前までの町名でもあった観光院、玉蔵院の二寺はすでになく、日赤町の日赤も移転するなど消長はあるのですが、それらがあった当時、人々は後世の異動を想定することはありませんでした。


 地名の多くは、こうしてある種の絶対性を内包しているようです。ちょうど原始航海術に必要不可欠な天体や、沿岸航海の小船舶にとって目印となる高山にも似て、それらは日々の生活に確実な基準を与えるものでした。


 無条件に人々を規制する権威など、絶対性は歴史上しばしば、人間の解放を阻害する要因ともなってきました。ですから絶対性の解体、つまり事物の相対化が望まれるケースは多いのですが、一方で最小限の絶対性も、その意味によっては保持される必要がありそうにも思えます。


 福島での原発事故の影響がますます深刻化するなか、脱原発を志向する国民世論の一方で、根

強く推進を図る勢力の動きも伝えられています。これからどのように議論が展開されるにせよ、原子(核)力と有機生命体とは、もともと絶対的対立の関係にあることを銘記しなければなりません。


 はるか昔、誕生後の地球が、まだ放射能に満ちみちていた長い年月、生命は誕生できなかったのです。




長岡には「長岡」氏が住んでいた!


            今井 尚紀


 昨年のレポートで「長岡」と誰が名付けたかという観点から調べ、「堀 直竒」の政治時代だから彼だろうと見当をつけた。彼が織田家に仕えていた頃の領地の近辺には「長岡荘」という地名(荘園名)があり、これは大当たりと喜んだのも 束の間のことであり、『長岡市史・資料編』にある長岡初見の文書(慶長一〇年・一六〇五年)を探し読むうちに、それ以前の天正九年・一五八一年の文章で、お館の乱に勝った景勝が、部下に与えた領地には、梄吉長尾氏の家臣、「長岡」氏の領地があったことには非常に驚いた。


 この「長岡」の地に長岡の姓を名乗る領主(武将)が居たことを初めて知った。それならば、長岡氏が領有し、治めているから「長岡」と呼ばれて、土地の名称として通用されていたとも考えられる。これは今迄のように土地の形状から発生しているという根本から違うものとなる。


 ではこの「長岡」氏とはどのような人物なのか、上杉謙信の関東攻の際、上杉に降った武将で、旧領地は、上野国長岡村(現在の群馬県榛東村長岡=高崎市の北北西約十二(キロメートル))・榛名山の南東山麓)との事、謙信の帰国に従い越後に入り、栖吉長尾氏に属し、長岡縫殿介(ぬいのすけ)と名乗り、長岡に領地を得て館も備えていた。後のお館の乱で栃尾城の攻防戦で戦死したと伝えられている。


 この人物の資料が殆ど無く、どこに館があったのか? いつ頃から長岡姓を名乗ったのか?(上州時代からと思われるが)


 これらが判明すれば、長岡の地名起源について新しい展開があると思われる。昨年のレポートから一年にもなろうとしているがどう調べてゆけばよいのかそれも判らずにいる、『上越市史』には、上杉家文書が多数掲載されているので読んではみたが何にも見付けてはいない。


 地形説を否定する気は全然ないのだが、この「長岡氏」のことをもっと知りたい、そして「長岡」の地名にどのような関連があるのかを考察していきたい、そんな気持ちだけが先行しているところです。