ふたたび吉田東伍


 東伍記念館をたづねて―雑感―


 吉田東伍が、『大日本地名辞書』を起稿したのは一八九五年。内外の累乱する情勢の中で、維新後のこの国がすでに国づくりへのオルタナーティブをみづから失い、硬直していく過程を辿っていました。


 後に不磨不朽の名著とされるこの書に託して、東伍がめざしたものは地名に封印されて埋もれた、民衆の生きた証を発掘することでした。世代を襲ね体制を超え、安心を求めて知恵を積み上げ続けた結果である文化の、そこは宝庫でした。


 私たちは吉田東伍の足跡を求める手始めに、六月、阿賀野市にある記念博物館を訪ね、驚倒するばかりの東伍の実像の一端に触れてきました。


 小学校卒業、新潟の英語学校には入学まもなく中退、という学歴からは、あの並はずれた知力の源泉を見出すことはできません。この頭脳をはぐくんだエネルギーのみなもとの一つは、むしろ無学歴にこそあったのではないかと思われるのです。


 日本の近代教育は明治維新とほぼ同時に新政府主導でスタートしました。教育の主眼は第一義的に社会秩序の形成・維持に置かれ、今に引き継がれています。


 しだいにこの目標は、個々人が生活の手段を獲得する意に具体化され、教育の目的、学校の役割は単純に一元化されていきました。だがこれは、アカデミックな知力を育てる方法ではありません。東伍が実践したような、闇を切り開き、先蹤をもたない道に踏み入る力量は獲得できないのです。


 そこで思い起こされるのがPISAの世界学力調査です。一貫して学力世界一の座を占めるフィンランドの教育は、統合的なリテラシーを教育の中心価値に据えています。このことは東伍の研鑽の道すじに深くオーバーラップしているようにみえます。猫の目のように制度を変え、過酷な競争を煽ってもなお、学力低迷にあえぐ日本の現状に照らして、東伍の独学の轍は、わたしたちに強力なヒントを与えているように思われるのです。

 会長 若月紘一




ふるさとの地名について 


 堀正則


 地名に関心を持ったきっかけは、仕事で赴任先の秋田で前九年、御三年の地名に出会ったことです。日本史でこの戦について習っており、記憶にありましたが、それがそのまま地名になっていることに驚きました。この二つの戦には八幡太郎義家が深くかかわっており、源氏の東国に勢力を築く契機となりました。

 

 ところで、私の故郷の越路には飯塚という地名があり、八幡太郎義家とゆかりがあるということは、以前日本で読んだ記憶があったので、少し調べてみました。


 岩塚村誌(飯塚村と岩田村が合併し、岩塚村となった)によると、源義家が奥羽討伐の後、越後蒲原鎧潟付近の黒島村に阿部貞任の一族がおり、これを討伐するためにこの地を訪れ、当地の豪農、内藤清兵衛方に休息した折、公のお召し上がりしお椀、お残しご飯、お汁を埋め、塚を築き記念とした。これが飯塚の村名の由緒であると記されております。現在も飯塚の集落から桝形城跡への登り口近くにめし塚、お汁塚などと呼ばれる塚があります。


 ただ、源義家の奥州遠征の際は関東地方を経由していたようで、越後を通ったとの史実は確認されていません。これらの塚は必ずしも飯を埋めた塚というより、そこの地形が飯を茶碗に高く盛り上げたような地形によく似ているところからそう呼ばれるようになったものと思われます。飯塚、飯盛という地名は、食物の豊かさを願う庶民の願いである稲作文化から由来しているといわれております。


 県内にも、同じような地名が多くあり飯盛山(小千谷市)家森山(塩沢町、加茂市)、飯森杉(京ヶ瀬村)、衛森杉(村松町)、上越市の飯塚、柏崎市の飯塚などがあり、全国にも同様の地名が数多く見られます。

 

 さらに、おもしろいことにこの飯塚(越路町、上越市、柏崎市)には、ともに八幡神社が存在しているということです。稲作信仰と、武勇の神を祀る八幡信仰とがなぜ結びついたか、いつか調べてみたいと思います。