では、芦屋・鷹尾両城に移りましょう。芦屋市内にある城山の中腹、芦屋川と高座川との合流点に築かれたのが芦屋城で、山上に築かれたのが鷹尾城です。
『瓦林政頼記』によると、「鷹の尾を城郭にて構られ」たそうです。細川家の家督争奪戦に於いて細川六郎高国に付いた瓦林-政頼は、永正八年に鷹尾城を築き、細川六郎澄元方の抵抗を叩きました。その後、澄元方の本体が襲来し、大激戦となったそうです。鷹尾城の外城(芦屋城ヵ)が落ちたものの、辛うじて瓦林氏が勝利しました。ですが、澄元方に赤松兵部少輔義村が援軍として合流し、形成が不利になった瓦林氏は伊丹城へ撤退しました。その後、細川六郎高国は息を吹き返し、勢力を挽回しました。瓦林氏も鷹尾城を奪還しましたが、越水城を築城したため、鷹尾城は廃城となりました。
-参考:伊丹城(遺構は有岡城期)-
-参考:越水城-
では、実際の城を見ていきましょう。先ずは手描き縄張り図から。
-手描き縄張り図-
阪急芦屋川駅から城山へと進むと、鷹尾城に関する看板が道中に設けられています。丁度この辺りに芦屋城があったそうです。
-芦屋城-
ここから更に上るとハイキングコースとなり、道なりに進むと、Ⅰ郭に着きます。スクワットでお馴染みの太平建設工業のCMを流しているサンテレビの中継器が設けられています。
-Ⅰ郭(順に南西虎口、南部)-
-同展望(順に南東、南西)-
-同北東虎口・堀A-
鷹尾城の見所はここからです。Ⅰ郭の北側に東西方向の堀Aがあり、そこから南北方向に土塁と空堀とが交互に波打って並んでいます。その東側には竪堀が落ち、視認できませんが櫓台が設けられています。現在までこの遺構が残っているとは素晴らしいですね。
-土塁G・堀B・土塁H-
-土塁H・堀C・土塁I-
-土塁I南端-
-堀C(順に南部、中部、北部)-
-土塁I・竪堀D-
-竪堀D-
-土塁I(順に北部、北端)-
この先にⅡ郭、Ⅲ郭と続きます。尾根続きに鷹尾山へと続きますが、区切る堀切はありません。防御に不安が残りますね。
-Ⅱ郭(順に南切岸、内部)-
-堀切F-
-Ⅲ郭(順に内部、展望)-
-北城外-
続いて、神呪寺(かんのうじ)城および鷲林寺(じゅうりんじ)城です。『西宮市史』「西宮合戦関係古文書」によると、前者は建武年間に赤松氏が寺を城塞化したそうです。『細川両家記』『甲東村誌』から見ると、永正・天文年間に細川六郎澄元やその嫡子の同名六郎晴元が陣を敷きました。どちらも、今は普通のお寺さんに戻っています。
-神呪寺城遠景-
-同仁王門-
-同看板-
-同本堂-
-同大師堂-
-同多宝塔-
-同展望-
-鷲林寺城本堂-
-同縁起-
-同舎利殿-
一旦切ります。閲覧ありがとうございました。