皆様こんばんは。今週も宜しくお願い致します。今週は前回の予告通り、近江国の三城をご案内します。
先ずは湖南市に於ける東海道沿いの二城から。
-東海道 於 湖南市-
一つ目、夏見城に行きましょう。有力土豪である夏見大学(諱不明)の居館城郭です。六角氏に仕えたそうですが、羽柴政権下で没落したとのことです。
-参考:六角氏の観音寺城-
-参考:羽柴筑前守の伏見城-
では、実際の城を見ていきましょう。範囲は分かりませんが、現在は北部が藪、南部が田畑と化しています。
-夏見城(順に遠景、北部、南部)-
-看板-
この城の溝から、毛抜きが出土しています。何処の毛を抜いていたのか分からないので、いくら出土物とは言え触りたくなかったでしょうね……。
-毛抜き出土溝-
気を取り直して、近隣の三雲城に行きましょう。
野洲川南岸の中央部、信楽高原を中心とする山岳地帯の北端に築かれた山城です。長享元年に、三雲典膳が上司である六角氏の命令で築きました。そのまま六角氏の旗頭で軍代の三雲氏の居城として用いられましたが、六角氏も使用しました。例えば、長享元年の将軍親征による六角征伐(鈎の陣)では六角氏の臨時本城となりました。他にも、天文六年に六角四郎義賢が、永禄十一年に六角承禎・同名右衛門督義治父子が、観音寺城から落ちた際に三雲城に入城しています。このことから、三雲城は観音寺城の奥城として扱われていたと分かります。
-参考:上鈎寺内町(将軍本陣)-
三雲氏は六角氏が織田氏と和睦した後も抵抗を続け、浪人しました。その後、織田三介信雄や蒲生忠三郎氏郷に仕え、徳川幕府旗本として家を存続させました。三雲城の廃城はそれよりずっと前、三雲氏がこの地を去った天正年間です。
-参考:蒲生氏の日野城-
-参考:徳川氏の江戸城-
三雲城へは、駅から東海道を含めてそこそこの道程を歩きます。
-地図-
その道中、この様な幟が見られます。
-幟-
真田十勇士の一角・猿飛佐助は実在の人物・三雲佐助賢春がモデルのようです。「賢」春の諱、は六角四郎義「賢」からの偏諱と見て良いですかね。
-猿飛佐助看板-
-参考:真田左衛門佐信繁の真田丸-
三雲城のある山に入ると、ハイキングコースに奇岩という岩があります。何でも、横から見ると犬の頭に、正面から見ると象に見えるとのこと。う~ん、言われてみればまあ……。
-奇岩-
他、ハイキングコースから少し山道に入ると、石垣が現れます。めっちゃ綺麗なのですが、それもそのはず。近代のものです。
-近代の治山石垣-
次頁より、城に入ります。閲覧ありがとうございました。