#112-1 津城(1/3) | 中川藤兵衛尉の城巡り日記

中川藤兵衛尉の城巡り日記

摂津国在住の城郭愛好家による城巡り報告です。誤りなどございましたら、正しい情報を頂けると幸いです。手書き縄張り図以外は、画像転載禁止とします

 皆様こんばんは。今週も宜しくお願い致します。今週は前回の続きです。ここからは津城です。安濃津城とも呼ばれています。

 

 この城は伊勢湾に面した平野部に築かれた平城です。北に安濃川、南に岩田川が流れていて、防衛面にも優れています。元々この地は、坊津・博多津と並ぶ日本三津でした。ですが、明応七年の大地震で壊滅したそうです。因みに、余震で興福寺の地蔵堂が倒壊したそうです。

 -参考:興福寺-

 

 城の歴史ですが、長野氏一族である細野伊豆守藤光かその子の同名壱岐守藤敦が築いたと言われています。ですが、これは誤伝の様です。弘治年間に細野伊豆守が安濃城を築城しているので、それとごっちゃになってしまったのです。『三国地誌』に依ると、「安濃津城按、弘治年中伊豆守藤充初て築き、永禄十一年其男九郎右衛門尉継で此にあり」らしいです。要は、造ったのは親父の方ということですね。

 

 永禄十一年に織田家による伊勢征伐が起こると、織田弾正忠信長の同母弟である同名三十郎信良が長野家の養嗣子となりました。

 -参考:織田氏の岐阜城-

 

 長野三十郎信良は細野伊豆守の次男である分部與三左衛門尉光嘉を家老に据え、上野城を築城しました。ですが上野城は狭く、新たに安濃津城に大改修を施しました。一説によると、伊勢国に詳しい滝川左近将監一益様の作成した縄張りだそうです。因みに、分部與三左衛門尉の養嗣子は初代大溝藩主である分部左京亮光信です。

 -参考:大溝陣屋-

 

 長野三十郎は長島征伐や越前攻めなどに動員された為、築城は遅々として進みませんでした。何と、元亀元(1570)年に着工を開始し、完成したのが天正八(1580)年です。これを期に任官し、長野上野介信兼に名乗りを変えています。この後、安濃城に封じた細野壱岐守ら中伊勢勢を攻め滅ぼして、織田民部少輔信包に再改名しています。最早、名門・長野氏の名跡を用いなくても伊勢を治めることが出来たのです。

 

 本能寺の変後で兄・織田前右府公や甥・同名左近衛中将信忠様が逝去し、羽柴政権が成立すると、織田民部少輔は羽柴藤吉郎秀吉の怒りを買って改易されました。

 -参考:羽柴政権の伏見城-

 

 代わって羽柴政権でも重要な位置に居た富田左近将監知信やその子の同名信濃守信高が城主となりました。富田信濃守は関ヶ原合戦では分部左京亮光嘉と共に津城に籠城しました。この功で伊予宇和島へ移され、新たに築城名人の藤堂和泉守高虎が伊賀・伊勢・伊予の三国に亘って領地を得て津藩主となりました。藤堂泉州は伊賀上野城を改築して詰めの城とし、自身は津城に居城しました。その後は一族から養子を迎えつつも藤堂家として幕末まで津藩を治めました。

 -参考:伊賀上野城-

 

 歴史についてはここまでです。閲覧ありがとうございました。