#84-4 森屋城・田原本陣屋・宝来城 | 中川藤兵衛尉の城巡り日記

中川藤兵衛尉の城巡り日記

摂津国在住の城郭愛好家による城巡り報告です。誤りなどございましたら、正しい情報を頂けると幸いです。手書き縄張り図以外は、画像転載禁止とします

 続きです。

 

 芝村陣屋から森屋城へ向かう途中、大和川の堤防を疾走していると、こんな生き物と出会いました。思わずバイクを止めましたわ。

 -山羊-

 

 閑話休題、次は森屋城です。この城は地元の森屋氏が治める、古代の中ツ道に接する重要な城でした。その為に奪い合いが起き、永禄十年に秋山右近将監直国の傘下、翌年に三好三人衆に与する十市新二郎遠勝が奪い、すぐに松永方となった秋山右近将監が奪還しました。松永山城守久秀は織田家と結び、再度侵攻して森屋城は落城、十市氏は松永氏に膝を屈しました。城は大和守護となった織田家重臣の原田備中守直政に接収され、十市氏は河内国に移動、その内衆がこの城に入れられたそうです。

 -参考:十市氏の龍王山城-

 

 -参考:松永城州の信貴山城-

 

 では、実際の城を見ていきましょう。先ずは縄張り図から。いや、本当にGoogle mapは便利ですね。

 -縄張り図-

 

 現時点で、どの区域までが城域だったのかは不明だそうです。古代中ツ道を抑えるという点では区画Ⅱ、堀が確りしているという点では区画Ⅲが城の範囲内ということになります。こういう謎を解き明かしてくれる史料が見つかると良いですね。

 

 区画Ⅰは現在、村屋坐弥冨都比売(むらやにますみふつひめ)神社という神社になっています。その東辺縁に古代中ツ道が走っています。正直、今では普通の狭い道です。

 -区画Ⅰ-

 

 -同東堀ヵ-

 

 -古代中ツ道-

 

 区画Ⅱは住宅街となっています。その周りの堀が川や用水路として一部残っています。

 -区画Ⅱ-

 

 -同南堀-

 

 -同東堀-

 

 -堀の折れ(地点イ)-

 

 区画Ⅲは田圃です。奥に幼稚園がありますが、西堀の向こうなので城外ですね。

 -区画Ⅲ・堀の分岐(地点ロ)-

 

 最後に田原本陣屋です。読みは「たわらもとじんや」で、区切りは「田原本/陣屋」です。「田原/本陣屋」ではありません。「田原の本陣屋」ではなく「田原本の陣屋」です。『郷土記』によると、田原本平城があり、城主は田原本兵蔵だったようです。時は下り、羽柴政権時下で平野遠江守長泰が田原本の地を与えられました。徳川政権下でも田原本を治めていた平野氏ですが、寛永十二(1635)年に城跡に陣屋を建て始めました。完成は十三年後の慶安元年で、それまでの陣屋地の薬王寺村から移転しました。因みに、平野氏は大名ではなく交代寄合という旗本だったそうです。

 -参考:羽柴政権の木幡山伏見城-

 

 -参考:徳川政権の江戸城-

 

 現在では田原本町の町役場となり、今も尚この町の中心地で居続けています。説明板が駐車場にあるとのことでしたが、撤去されたのですかね?

 -田原本陣屋-

 

 最後に宝来城です。詳細は不明ですが、地元の宝来氏の城らしいです。安康天皇陵菅原伏見西陵とされていますが、古墳としての出土品が無いとかなんとか。北堀の鋭さを見るに、ただの城ですね、ここ。

 -遠景-

 

 -北斜面-

 

 -北堀-

 

 本日はここまで。今回も

 『近畿の城郭』シリーズ(戎光祥出版)

 『日本城郭体系』(新人物往来社)

を参考にさせて頂きました。ありがとうございました。

 

 次回は来月21日(土)、山城国のお城をご案内する予定です。それでは皆様、閲覧ありがとうございました。お休みなさいませ。