#82-1 久秀非公記 ~嫌われ松永の一生~ 独立編(1/2) | 中川藤兵衛尉の城巡り日記

中川藤兵衛尉の城巡り日記

摂津国在住の城郭愛好家による城巡り報告です。誤りなどございましたら、正しい情報を頂けると幸いです。手書き縄張り図以外は、画像転載禁止とします

 皆様こんばんは。今週も引き続き、写真と共に松永弾正少弼久秀の生涯を追っていきましょう。

 

 三好修理大夫長慶公がご逝去すると、その跡を継いだ三好孫六郎重存は、永禄八(1565)年に左京大夫の官職と足利将軍家の通字である「義」の字とを賜って三好左京大夫義重を名乗りました。それと一緒に、松永右衛門佐久通も「義」の字を賜って諱を「義久」と改めました。

 -足利将軍室町第-

 

 その僅か数日後、三好左京大夫は三好日向守長逸や松永右衛門佐らの軍勢を引き連れて当時の将軍御所を囲み、将軍やその母・慶寿院、弟・周暠や多くの奉公衆を死に追いやりました。この事変については、「初めから殺害が目的だった」とする考えと「ただの『御所を軍勢で取り囲んで要求を行う行為(御所巻)』」の筈だった」とする考えとがあります。後者でも、政治的に大きな力を持っていた慶寿院の排除など無理な話だったので、将軍の死は織り込み済みだったのではないでしょうか。

 -当時の御所(二条武衛陣の御構え)-

 

 確実に言えることは、巷で言われるような「松永弾正少弼が将軍を弑した」というのは誤りだということです。実行犯は、飽くまで嫡子・松永右衛門佐です。では、松永弾正少弼は何をしていたのかというと、興福寺一乗院の門跡で将軍の弟でもある覚慶を多聞山城に迎え入れて保護していました。実際に、「貴方様を守ります」という松永弾正少弼の誓紙が残っています。これについても、「事変に反対だった」から保護したという考えと「手駒として使う為に」そうしたとする考えとがあります。証拠が無い以上、何方が正しいのかは永遠に不明です。

 -興福寺一乗院-

 

 この後、松永弾正少弼は覚慶を逃がすのですが、その為に三好政権は若狭国で敗北し丹波国を失い、大和国も謀反が起こるなど領国が動揺しました。その責を取らされ、松永父子は失脚しました。三好家の三大奉行である「三好三人衆」は松永弾正少弼との絶縁を求めて飯盛山城に進軍しましたが、既に松永父子は追放されていました。主君に向かって進軍するだけでも彼ら三人衆が若輩の上司・三好左京大夫を舐めていたことが分かりますが、彼らはそのまま飯盛山城を奪い、三好左京大夫を高屋城に移しました。

 -飯盛山城-

 

 -高屋城-

 

 因みに、この当時の三大奉行は松永弾正少弼と三好日向守、それと三好下野守政生(号:釣竿斎宗渭)の三人でした。松永弾正少弼が失脚した後、その後釜に石成主税助友通が入りました。「三好三人衆」という呼称が使われるのは、石成主税助が加入してからだったりします。

 -後の石成主税助の居城・青龍寺城-

 

 勢力基盤を失った松永弾正少弼は、筒井城を攻めてこれを落とし、その実力が健在であることを知らしめました。

 -筒井城-

 

 翌永禄九(1566)年には、松永弾正少弼は嘗ての高屋城主・畠山紀伊守高政や三好左京大夫の実弟・松浦孫八郎と同盟を組みました。連合軍は上野芝に於いて一戦を交えるも敗北し、堺を三人衆に明け渡すことになりました。

 -上野芝-

 

 かと言って、松永方が勢力を失ったのではありませんでした。三好政権内部でも松永方を支持する者も多く、旧領・滝山城に嘗て三好孫次郎利長公が治めた越水城、今村氏が守る山城国の勝龍寺城、今村氏と行動を共にする小泉氏の同国小泉城、細川次郎氏綱の旧臣や弟が在城する同国淀城(現在の淀古城)・摂津国堀城も松永方だったので、三好政権軍は京に入る事が出来ませんでした。

 -滝山城-

 

 -越水城-

 

 -小泉城推定地-

 

 -淀古城-

 

 -堀城-

 

 こうした最中、将軍位を狙う覚慶改め足利義秋はこれを好機と捉えて調略や朝廷工作を開始し、次期将軍が就任する慣例の左馬頭に叙任されました。足利左馬頭義秋は、恩人である松永弾正少弼と結んでおり、この後の高屋城合戦・筒井城合戦には、同じく足利左馬頭と結ぶ織田家から援軍が来ていました。ですが、何方も松永方が敗退しました。

 -織田三郎信長の岐阜城-

 

 堺に於ける合戦に敗れた松永弾正少弼は逃亡し、消息不明となりました。嫡子・同名右衛門佐久通はこの後、多聞山城の防衛に努め、三好三人衆と畠山紀伊守・松浦孫八郎とは和睦しました。

 -多聞山城-

 

 松永弾正少弼が行方知れずになった所で、一旦終わり。次頁に続きます。