6月の防災カフェは「被災地オテガミプロジェクト推進チーム」の代表である久保田 洋一さんをゲストに迎えてお話を聞きました。

 

「被災地オテガミプロジェクト推進チーム」の代表 久保田 洋一さん

 

久保田さんは東日本大震災が起き自分でも何かできることはないだろうかと、

もやもやとした気持ちでいました。

震災から1年たった3月11日、被災地の様子を伝える新聞の写真に心を突き動かされ「新聞にでていたあの人に会いたい」という一念で一人東北へ足を運びました。北は、大槌町から釜石、大船渡、石巻、陸前高田へと下・・・

知り合いもなければ現地の人と繋いてくれる人もない旅で奇跡がなんども起こりました。

大槌町では鎌倉から来た震災支援の若者が「かまくらやカレー」という店をオープン。そのお店で偶然一人目の写真の女性と会うことができたのです。

大船渡では建築事務所の社長さんが被災の現場を案内してくれたり、陸前高田では、タクシーで市内を巡りました。

 

各地を巡ったことで復興の様子が市町村で違うことも目の当たりにしました。特に陸前高田は遅れていると感じたそうです。その理由として、4分の1の行政職員が犠牲になっていたことや市長が震災直前に変わったばかりだったということで行政がなかなか進まなかったことが理由ではないかと思ったそうです。

 

 

被災地から長野に帰った久保田さんは、家庭菜園で採れた自家製のじゃがいもをお礼に送ったところ、陸前高田のタクシー運転手さんから「おいしい!」と非常に喜んでもらったことで「もっと多くの人に元気を届けよう!心の支援をしよう!」と自分たちができるボランティアが閃きました。

 

シニア大の仲間に声をかけ6人で「オテガミプロジェクト」を立ち上げ。中央郵便局で私書箱を開き、いろんなところへPR用のチラシを置いてもらうなど手弁当で進められました。このプロジェクトのコンセプトはお金以外で東北の人々を思う気持ちを手紙などにして送るものです。絵手紙あり、ハガキあり、封書あり、、、 

現役時代のネットワークを使い、ありとあらゆるところにお願いに歩きました。しかし、門前払いや断られたこともありましたがそんなことではめげない久保田さん、長野市の教育委員会の後援をもらうなどできる限りの手を尽くされました。

 

これまでにオテガミプロジェクトに参加した人は5170通、シニア層を中心に小学生も参加しています。絵手紙の講師とつながって絵手紙教室に通う生徒さんが積極的に参加してくれるなど、多世代多様な人たちが参加しています。被災地では混乱があったため、直接個人にオテガミを出すことはできなかったので、現地の社協さんを通して配ってもらうという方法を編み出しました。返事もしないというのが当初の条件でした。53の仮設住宅のコミュニティセンターやお茶っこの会などで出してもらいました。当時を知る長野市の元ボラセンコーディネーターは「当時はそうした贈り物で被災した人たちが多かった。被災地は相当混乱していたので、私たちもこのプロジェクトがうまく行くか不安だった」と当時を振り返りました。

その後現地への訪問活動は15回、絵手紙やコーラスに夜交流、松植樹祭に参加するなど6年間の交流は、個々のつながりも産んできました。

久保田さんは、活動を続けるコツとして、オテガミプロジェクトに参加した人に対して必ずお礼状を書き、現地の様子を伝える通信を送り続けています。

陸前高田の現地と長野の人をつなぐパイプ役になっているといいます。今では、11箇所にオテガミを送るようになりました。

 

さらに、新しい学校の図書館へ図書を買うお金を寄付をしようと古本回収をボランティア活動に変換する仕組みを手がけている「バリューブックス」を活用し古本による図書費への寄付活動も行っています。

「ハード面の復興はそこそこできた。しかし、心の復興こそがこれから。人口現象や若者の流出など課題も多い中、ソフトの充実は知恵を出し合う、気力を出し合うことが大事でそこを応援するのが私たちのハートだ」とこれからも活動を続けると久保田さんは話しました。

また、長野では年々関心が低くなってきている。防災を考えることも含めてもっと大勢のみなさんに陸前高田の現状を伝えて行きたい。そのために語り部を招いて話を聞く会を開催予定。

 

 

震災から7年たった今でも久保田さんのように活動を続けている人は決して多くない。継続の鍵は、フットワーク、ネットワーク、ハート力だとお話を聞いて感じました。

 

オテガミプロジェクトに参加したい人は長野市ボランティアセンターに用紙があります。