徳川幕府は各街道に開所を設けて通行人を取り調べていた。

碓氷の関所が横川に置かれ「人鉄砲出女」と言って

特に銃の動きと女人はなるべく関所を避けて通るようになり、

自ずと裏街道ができた。

これを女街道と呼んだ。

ここは関所を避けるため、

入山峠又は和美峠を越えて借宿で中山道と合流する

中間地帯で、

僅かに当時の面影を残している所である。

道筋には旅人の道中安全を祈願した多くの石造物が

建てられたため、

ここから東側を地蔵ケ原と呼んだ。

そこには残存されていたものを昭和四十一年に収集し、

更に昭和六十二年に整備した貴重な資料である。

 

軽井沢町教育委員会

軽井沢町文化財審査委員会

 

(原文より)

 

住所:長野県北佐久郡軽井沢町発地1130−200