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私は、7歳から33歳まで通算、21年を広島で過ごしました。小学校・師範学校・高等師範・大學が広島です。

長男・有道が脳性小児まひでしたから、息子の治療教育の為、当時一番の小児科の名医・九大小児科・遠城寺宗徳教授を頼って福岡に居を構えました。

何度も広島文理科大学で教鞭を取るように勧められましたが、果さない内に、原爆が投下され、沢山の親族や友人が犠牲になりました。

特殊爆弾の投下を知り、1週間後には、広島に入り、悲惨な光景を目の当たりにしながら、親族や友人の安否を確かめて歩き回ったのです。


また、長崎で被爆した稲籾を毎年、庭のポットで植え続けています。原爆稲は、昭和20年10月に編成された文部省原爆被害調査団のメンバー九州大学のスタッフが、浦上天主堂下の水田で採取した稲の子孫です。花が咲くまでは、普通の稲と同じです。
しかし、普通は、100粒ほど籾をつける1本の穂の半分が空籾になるのです。放射線の影響で、染色体に異常(転座)があり、稲穂の半分が空籾になります。半不稔と言います。これが、原爆の後遺症です。原爆稲は、被爆から60年以上経過した今も被爆の影響を伝える生き証人だす。

私は、広島の被爆、長崎の被爆にも深い関わりがあります。こうした事もあり、原爆被害者の会から、講演のお誘いが来た時、喜んでお受けした次第です。