人生振り返って・1 | 63歳からの登山

63歳からの登山

87才から山頂に行けなくなった。
88才から複数登山にする。
登れなくなるまで登ってみる。
89才どう生きるか老いを綴っていく! 

 人生振り返って

はじめに
綴りだして幼児期、少年期は定かでないことが多いので、母姉に聞いたものをもとにして綴っています。

場所、名前、会社、実名ではありません、字抜け、誤字、文の誤りなどがあります。大目に見て下さい。

  生まれ故郷
昭和10年・北海道開拓の小さな町に生まれる。

本州から父の叔父一族が北海道に渡り小さな運送店を設立する(長井運送組)現在と違って車のない時代、馬車の配達でした。 

馬桶に入れられ(馬の餌の箱)馬の顔を見ながら育った。

 父を思う
父の親は藩の役人だった、明治政府になって藩はなくなり、父は両親に早く死なれ叔父に育てられる、当時は藩がなくなると新開地北海道に渡った。
父はこの街に来てから叔父を手伝い運送店を守りたてた、レンガ造りの倉庫二楝を持ち繁盛した。

父は大正13年に結婚、三女五男、男二人目が私の誕生。 

時代は代わり国の政策大手日本通運が入ってくる。小さな運送組潰れる。

父は日本通運に転職するが、うまく行かない賭博に走り破産、夜逃げ同然、函館に来るが戸籍がない。
 

 あわてふためいて、戸籍をつくるが間違いだらけ、母は内縁のままになっている、私の戸籍も結婚するまで函館だった。 

間違いだらけの戸籍が私達姉弟の縁の深いものになる、私は二才、母は身重、母の親が樺太に渡り割烹を営んでいる、私を連れて樺太に渡る。

 母の祖父は昔かたぎ厳格な祖父、樺太恵須取では顔が広く、軍属、開拓役人と幅が広い。

祖父は母に負い目がある、祖父のはじめの妻は**令嬢とに出来た子、祖母は身体が弱く籍が入っていない、離縁されている、昔は男子が産まなければ籍に入られず離縁というのが残っていた。
 母は生まれてすぐ養女に出されている、継母に育てられ痛めつけられ傷だらけ、学校にも行かず働かされたそうです。

見かねた近所の人が警察に訴える。

  母は警察で台に立たされ「この傷、この痣は」と指摘され恥ずかしい思いをさせられたそうです!

人には言えない苦労があった。

 

 祖父の家に来てから私は祖父に可愛がられたが、函館での父姉弟は大変だった、その後父姉弟母を訪ねて樺太に来る。

母は祖父の割烹が忙しいので手伝をしている。

  祖父の家で、三男弟が生まれ姉たちは反対したそうですが親の事情、すぐ養子に出される。   
昭和16年ころまで養子先に遊びにいったが母に怒られ、昭和53年まで会うことはなかった、弟は良い家庭に貰われて一人っ子で育つ。

 

 私が三才の頃、印象残る思いでがある。

恵須取の浜に鯨が上がり、解体するところを姉に抱かれて鯨を見に行く、大きな鯨、頭と胴が切り離され、くちばしが上をむいている、その光景が今も脳裏に映える。

姉は忘れていた。

 

 函館の父姉弟は母を訪ねて樺太に来る。
祖父は顔が広いすぐ仕事決まる。

内幌炭鉱工業所の帳場(経理)炭鉱長屋に落ち着く。炭鉱は当時給料が良い、親子平凡な家庭を送れるようになる、ある日父が当時貴重なバナナを買ってきた、バナナを隠し、兄とバナナ探しこれが印象に残っている。

 

 炭鉱長屋で四男が生まれる、昔の女は凄いお産も一人で生む、産気づく昼間誰もいない、母と六才の私だけ「隣のおばさん呼んできて」呼びに行くがおばさんいない!帰ってくると母は立ち膝で産み落とす「オギャオギャ」私は母の側に行く「針箱からハサミ糸を持ってきて」あとからわかったことだがへその緒を切っていたのだ。
オシメで赤ちゃんを拭いている、兄が学校から帰ってくる。
「産婆さん呼んできて」と母当時は電話などない、父が帰ってくるがオロオロ!母は「お湯沸かして」このような時は女は強い。

産婆さんが来る父はヤット落ち着く!

幼児期の強烈な思い出。

父はこの時期が一番幸せだったに違いない。

 

  樺太時代(少年期)
昭和16年、この頃から日本は戦争へと進む、兵隊の軍事訓練を見に行った、憲兵隊に憧れた。

4月から1年生昭和17年2月1日夜、父が会社から(樺太内幌工業所)から帰ってこない。 

樺太の冬の寒さはもの凄い!

寒さで行き倒れになることがある。

 翌日会社までの足取りを探すがわからない、行方不明扱いになる、私7才昭和17年2月、留守番をしていると、憧れていた憲兵隊三名土足のまま部屋に上がり込んできた、部屋の中を何かを探している、タンスの引き出しひっくり返し書類を持って出ていった。  

7才の子供、憧れていた憲兵隊が恐怖に変わった憲兵隊のチョウカ(革の茶の長靴)と腕章が今でも鮮明浮かぶ、その後刑事、特務機関の人が母と話している。


 炭鉱工業所の帳場、当時の樺太は石炭、増産増産で朝鮮人は強制労働をさせられていた。 

父は朝鮮人の世話役などしていました。
炭鉱事故で朝鮮人が亡くなると、父母は朝鮮人長屋でこまごましく働いていた、一家の柱が亡くなると奥さん子供が「アイゴ-チユゲタ-」と泣いている、この泣き声は生涯消え去ることはないだろう。
 一度韓国の人に、この意味を聞いたことがある「身震いする」と教えてくれなかった!

それ以来聞かないことにしていた。

あとからわかったが「死にそうだ」という意味だそうです。今は慰安婦で問題になっているのだが、この問題はどうなっているのか、・・・

母子は悲しくつらい思いをさせられたと思う。
 

  父母は朝鮮人との交際は親密だった。

この話を樺太に住んでいた人方に話をすると必ず「お父さんは殺された」と言う。

この歳になっての推理・当時は軍と民間会社のトラブルは闇になった事件はたくさんあります。 

父母は朝鮮人との交流、スパイ、会社のトラブル色々考えされる。

春になり河の氷が融け河から父の遺体が発見される、遺体が運ばれるが昔は戸板にムシロをかぶせたままです。
 近所の人方の合掌が目に浮かびます・・・ 

母が警察に呼び出される、私をつれて、父の眉間に子供の頃の古傷が河に浸かりふやけて大きくなり、そのことを問つめている。

父の同僚が殺人容疑で拘束されていた。 

母は大声で何かを言っている、子供にはわからなかった、恐ろしくなり母にしがみつく!

あとから聞いたことだが、同僚の無実を証明したそうです。

 

 同僚を引き取るが、同僚は後ろを振り返り何回も頭を下げ手を合わせていました。 

当時の警察「おいこら」の時代、暴力拷問、顔は傷だらけでした、母に大人になってから聞くが「あの人には本当に気の毒だった」と言っていた。

 父の死亡場所、当時の冬は河の氷に穴を開け防火用水にしたようです、戸籍はその穴に落ちたと推定になっている。

 道路を外して河に行っても防火用水穴は2月厳寒期凍っていた、そこも兄と探した凍っていた。

父の死亡は不明な点がたくさんある、軍国主義母は何も言えなかったのではないのか・・・


 父が死んだあとにも炭鉱長屋に住む、五男が生まれる、生まれてすぐ子供のいない家庭に養子に出された、口減らし!

昭和17年私は国民学校に入る。

学校行くがクラスに意地悪の奴が父のことで私をいじめる、子供だからスパイと言われても解らない!学校に行くのが嫌になり学校をサボルようになる。
 学校から問い合わせが来て姉が私を探しながら川縁の土手、私は疲れ草の上に寝ていると、姉は何も言わず姉と横になる。

 何も言わない怒らない「帰るよ」と歌を歌いながら土手を歩く、おとなになってそのこと姉に迎えにきたことを聞くが姉は忘れて「そんなことあったかい」。

学校に行くと悪ガキ先生に怒られたかいじめなくなった。

 

 母の好きな人
母も働かなければならない又祖父のところで働く。

私は祖父のメンコ学校から帰ると帳場の呼び出し番号を仲居さんに知らせる番兵だ、母は料理人を手伝っている仲居さんにはテキパキと指示機敏に働いている、お客さんが好意を持ち、将校に好かれた。 

祖父のところは割烹食材は良いものが一杯あった。 

牛肉は足ごと一本ぶら下がっていた、軍属財閥などの宴会、会合など時々あった。

母の好きな人毎週来る将校がいた。 

襟章金の線一本、星3つだったと思う。

 目を覚ます母がいないトイレに起きる、店は終わっている料理場は真っ暗、祖父も寝ている、客間を見る電気がついている障子ガラス越しに母と将校が楽しそう!

 

 見たことない母の笑顔。私は三年生まだ子供、男と女のことなどわからない!

客間に「かあちゃん」と入る、将校「坊やごめんごめん今帰るから」軍帽をかぶりサ-ベルを下げ暗い廊下を静かに歩く、祖父に気を使ったのだろう、二人は出ていくが母は部屋に帰ってこない、しばらくして母が戻ってくる。 

窓明かりに布団に座り窓を見て清々しい顔・・・その後将校を何回か見かけるが来なくなった。

  私が大人になってから母に聞く、南方で戦士したそうです。

母は見合い結婚、恋などなかったと思う初めての恋だと思う。聞いた時70才頃の母、苦笑いしていた。

  

 モルヒネ中毒(わからない人はモルヒネ検索)
母の思い出に仲居さんのモルヒネ中毒にかかりそれを母が治した。

仲居さん禁断症状になると暴れる仲居さんの足、手首縛り布団部屋に監禁、寝かせる、見張りは私!なにかあると知らせる。

 ご飯を持っていった、期間はわからないが治した。

当時樺太は専門病院などない時代です。

治ってから美人の仲居さんに「によんこちゃん」と可愛がれれた。

 恵須取浜火事
真夜中母に起こされる近所から火事、浜風が強い、弟と裏山に逃げる、大きな火の粉が飛んでくる山に火の粉が刺さる山燃えだす、下を見ると家が次から次燃え移る、祖父の家も燃えだす。

 大事なものを母兄姉がかろうじて持ち出す、裏山は風当たりが強いガタガタ震えていた、燃えるのを見ているだけ、当時は木造建築がほどんと太い柱だけ残して灰だけが残る、恐怖寒さ、よく死ななかったと思う。 

姉兄は火事の話したが火事現場の「馬鹿力」普段では持てない荷物を持ったと驚いていた。

 祖父の家が燃えたので私達親子は山市街に移る、上の姉は看護婦の免状を取り炭鉱病院に勤める、下の姉は電話交換手、私は4年生、大東亜戦争が激しくなる。  

『人生振り返って2へ続く』