ナチュラルとか、ネイチャーとか。 | 沈思黙考、御意見無用。

ナチュラルとか、ネイチャーとか。

自然、と聞くと、我々はどうも油断してしまう。

天然、自然、そのほかにも、似通った表現で、安全とか安心をアピールする商品は多い。

そしてまた、これらと省資源(エコロジー)を混同してしまうことも多いのではないか。図らずも今夏は、いわゆる「再生可能エネルギー」が世間の耳目を集めている。

電力消費量を減らし、省資源に取り組もう、無害で安全な再生可能エネルギーに注目せよ・・・今やこれが金看板である。

だが、考えて欲しい。

「自然が我々に優しかったことなど、一度もない」。

「我々のための」自然などない。自然界のあらゆる事物は、それ自体に強力な自己保存の本能がすり込まれている。そのためならなんでもする。自らに毒を仕込み、捕食を逃れる生物の、なんと多いことか。

植物についても同じである。現在、我々が摂取する穀物は、すべからく人間の思惑の元に改良(改悪?)されている。中には、種子のない果実なんてものまである。「食べるのに面倒くさいから、種なし○○を作ってやろう」・・・安易な思惑が見え隠れしないか。種の保存を果たす運命を持たぬ生命を人工的に創造すること、その罪は誰が負うのか。

自然とは、高度にオートメーション化された環境保全システムの総称だと言えるのではないか。緑はびこる大自然の姿を見るたび、そしてその恐るべき「生命力」を目の当たりにするたびに、そら恐ろしさを感じる。

「我々は、大自然の一部である。」

そのことの本当の意味を、知る人は少ないのではないか。