沈思黙考、御意見無用。
Amebaでブログを始めよう!

クラウドの行方

クラウド・コンピューティング。

近年、盛んに喧伝されるこのシステムは、これからの「コンピュータ」のあり方を根本的に変えてしまうものである。

「ハードありき」であった従来のシステムでは、その発展は、そのまま「ハードの高速化・大容量化・安定化」の歴史であった。それに対応するように「ソフト」は肥大化し、そのすべてのデータはハードに蓄積され処理されざるを得ず、結果として、それをハードが追いかける「いたちごっこ」が加速していった。

まず、高速大容量の記憶システムの発展は不可欠であった。SSDはその信頼性・低価格化を向上させプライマリ・ドライバとして十分に機能するまでになったし、HDDやリムーバブル記憶デバイスは今や数TBのものも当たり前になっている。もちろん中央演算装置(CPU)やメモリの巨大化なども必然であった。

結果として、「コンピュータ」とは、完結した巨大な「情報処理システム」そのものを指すようになり、それらを繋ぐことにより、「www」が実現していったのである。これには、各々のコンピュータ自体が完結したシステムであることが必要であった。

ところが、この概念は、比較的単純な2つの矛盾を抱えている。

wwwで繋がったシステム同士は、共通の言語(ハイパーテキスト)を基準とすることによりその互換性を保つ。が、カーネルとなるシステム(OSと言い換えてもよい)は各々のシステムごとに必要になるのである。そのため、「システムを構築するための仕組み」はコンピュータの数だけ必要となり、結果として、(大容量ではあるが)有限の記憶システムには、冗長なカーネルなりOSの記述が必要になるという点がまず1つである。

次に、これらにより作成されたデータは、ネットワークにアップしない限り、その端末でしか使用できない、と言う点である。しかし、データごとアップしてしまうと、いつでも、だれでも使用でき改ざんできるデータになってしまう。

これをクラウドが解決する。

手元のデバイスには必要最小限のデータがあればよい。そこからクラウドを通じ、必要なデータやソフトを「使用」する。これなら、冗長な部分は同じデータを使用でき、より効率的な情報処理が可能になる。

これにより、「私のコンピュータ」はハードでなく、クラウドにより提供される「データの一部」になるのである。突き詰めれば、手元にはOSすら必要なくなる。現在のシステムを流用するなら、マザーボード上のBIOSだけでも事足りるはずであり、データやソフトの「処理」もクラウドで行うとすると、「結果」を表示するに足るスペックさえあれば、スーパーコンピュータのような使用も可能となるだろう。

ハードに依存しないコンピューティング。これを可能とするシステムは、当然そのデータ自体のセキュリティなどが問題となってくる。が、それは些細なことである。データの中身は分散して保存され、それらをまとめる「設計図」がなければただの文字の羅列でしかない。この「設計図」の管理イコール「クラウドのセキュリティ」となるが、これは現在のコンピュータでも同じ問題を抱えている。「管理」までクラウドに預けてしまうのでなければ、問題は単純であろう。

また、データ自体が消失するという不測の事態も考えなくてはならないが、そのリスクも既知の問題であり、対策は講じられるはずである。

ある程度の知識や技術が必要な点では、どの分野も同じことであろう。使い方を誤れば、誤った結果が返ってくるロジックそのものが、当然の帰結である。

あとは、このシステム自体が「ネットワークに接続されていること」が前提であると言う点と、トラフィック増大の問題だが、これはまた別の問題である。

ナチュラルとか、ネイチャーとか。

自然、と聞くと、我々はどうも油断してしまう。

天然、自然、そのほかにも、似通った表現で、安全とか安心をアピールする商品は多い。

そしてまた、これらと省資源(エコロジー)を混同してしまうことも多いのではないか。図らずも今夏は、いわゆる「再生可能エネルギー」が世間の耳目を集めている。

電力消費量を減らし、省資源に取り組もう、無害で安全な再生可能エネルギーに注目せよ・・・今やこれが金看板である。

だが、考えて欲しい。

「自然が我々に優しかったことなど、一度もない」。

「我々のための」自然などない。自然界のあらゆる事物は、それ自体に強力な自己保存の本能がすり込まれている。そのためならなんでもする。自らに毒を仕込み、捕食を逃れる生物の、なんと多いことか。

植物についても同じである。現在、我々が摂取する穀物は、すべからく人間の思惑の元に改良(改悪?)されている。中には、種子のない果実なんてものまである。「食べるのに面倒くさいから、種なし○○を作ってやろう」・・・安易な思惑が見え隠れしないか。種の保存を果たす運命を持たぬ生命を人工的に創造すること、その罪は誰が負うのか。

自然とは、高度にオートメーション化された環境保全システムの総称だと言えるのではないか。緑はびこる大自然の姿を見るたび、そしてその恐るべき「生命力」を目の当たりにするたびに、そら恐ろしさを感じる。

「我々は、大自然の一部である。」

そのことの本当の意味を、知る人は少ないのではないか。