【サウジアラビア】
-スンニ派
-イエメン政府を支援して介入し、内戦状態が続いている。人権団体は軍事介入を続けるサウジアラビアを強く非難している。
【IS】
スンニ派過激組織
【サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウード/1935-】
-第7代サウジアラビア国王/2015.1.23-
【サウード家】
-サウジアラビアの王家
-アラブ人のスンナ派のアナイザ族に属するアラビア半島中部のディルイーヤの支配者だった
-18世紀中頃、ムハンマド・イブン=サウード(在位: 1744-1765年)がイスラームの純化を唱えるムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブと盟約を結んで、ワッハーブ主義の保護者となる代わりにワッハーブ派勢力の世俗支配者としての正統性を認められて、勢力を拡大した。
【ワッハーブ派】
18世紀にアラビア半島内陸のナジュドに起こったイスラム教の改革運動。宗派としてはスンナ派に属するが、その下位宗派に数えられる場合もある。
【ウラマー】
-イスラームにおける知識人
-イスラム法学者
【ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ】
スンナ派ムスリムの宗教家、ウラマー。クルアーンと預言者のスンナだけに基づき、タウヒードを強調する厳格な復古主義的思想を説いた。信仰の本来の教えに立ち返ることによってイスラームを「浄化する」ことを訴えた。ここで言うイスラーム本来の教えとは、預言者ムハンマドが直接伝道した人々から数えて3世代までの「サラフ」(先祖の意)により理解されていた教えを指す。また、宗教的なこしらえ物(ビドア)、あるいは多神教(シルク)とみなしたものは、それがたとえ普通のムスリムの生活に根付いた習慣であっても拒絶すべきものとされた。
-イブン・アブドゥルワッハーブはムハンマド・イブン・サウードと同盟を結び、その助けを得てディルイーヤ首長国(第一次サウード朝)を樹立した。彼らは同盟して権力を独占した上で二人で分け合い、二人の一族による支配はこんにちのサウジアラビア王国(第三次サウード朝)まで続いている。サウジアラビアにおける「アール・アッ=シャイフ」と呼ばれる宗教的権威のある一族がイブン・アブドゥルワッハーブの子孫であり、同国の聖職者階級養成機関を支配してウラマーを統率している。
【ディルイーヤ】
サウジアラビアの首都リヤド郊外に位置する都市。かつてはサウジアラビアの王族サウード家の本拠地で、1744年から1818年には第一次サウード王国の首都であった。
【クルアーン】
-クルアーン、あるいはコーランは、イスラーム教(イスラーム)の聖典。イスラームの信仰では、唯一不二の神(アッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。
-クルアーンは、読誦して音韻を踏むように書かれている。「クルアーン」という名称はアラビア語で「詠唱すべきもの」を意味し、アラビア語では正確には定冠詞を伴って「アル=クルアーン」と呼ばれる。
-英語では、Quran(Qurʾan)または、Koranと表記されるが、「コーラン」は、回教と共に中国語「古蘭(可蘭)」に由来。 通常、日本ではコーランと呼ばれることが多い。
【クルアーンの成立経緯】
アラビアヒジャーズ地方の町マッカ(メッカ)の商人であったムハンマドは、40歳ほどであった西暦610年頃に、迷うところがあってしばしばマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していた。ある日の瞑想中に突然、大天使ジブリール(ガブリエル)が彼のところにあらわれ、神から託された第一の啓示を与えた。
【カリフ】
預言者ムハンマドを代理する者
【シーア派】
7世紀のカリフであったアリーとその子孫のみが、預言者の代理たる資格を持つと主張
【イマーム】
-シーア派指導者
-最後の審判の日に再臨すると考える
【ガイバ (隠れ)】
874年に12代イマームは人々の前から姿を消したが、最後の審判の日に再臨すると考える
【シーア】
アラビア語で党派を意味
【アッ(定冠詞)=シーア】
同派
【イブン・ラシード家】
-アラビア半島ジャバル・シャンマル地方の近代の名家。 19世紀中頃、故郷での政争に敗れ、イブン・サウード家に仕え、やがて宿敵アリー家を倒してジャバル・シャンマル地方を回復。 1882年頃から主家と対立して一時期中部アラビアの覇者となったが、1921年ついにイブン・サウード家により滅ぼされた。
【現在のサウード国家】
1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。
-アブドゥルアズィーズは、1913年からハサー、1921年のハーイル征服までにカティーフ、ナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)を制圧した。そして1926年までにヒジャーズ王国を制圧し(サウード家のヒジャーズ征服)、1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となる。1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日に結ばれたジッダ条約によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立。1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が成立した。1934年、サウジ・イエメン戦争、イドリシ朝アスィール首長国を併合。
【フサイン・イブン・アリー/1853-】
-イスラム教スンナ派
-オスマン帝国からのアラブ独立運動の指導者
-1915年にメッカの太守であったハシム家のフサイン・イブン・アリーが、イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスの協力を得てアカバを占領し、その後ダマスカスに進軍してヒジャーズ王国を建国した(アラブ反乱)。
【メモ】
-シーア派
-アリー家
-スンニ(スンナ)派
-サウード家
-ラシード家
-ハシム家