【イメージ】アルメニア、ペルシャ | 平(たいらの)順二のブログ

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【アララト山】
『旧約聖書』にでてくる
ノアの箱舟が大洪水の後、
流れ着いたとされる山と目されて、
12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。

現在のアララト山頂から見つかった古い時代の木の化石や、
航空写真から見出だした方形の船の跡らしいものを

ノアの箱舟の痕跡だとし、
ノアの箱舟伝説が実証されたと主張する人もいるが、
一般的には受け入れられてはいない

アララト山は古くからアルメニア人の多く
居住してきた地域(大アルメニア)の中心にあたり、

アルメニア民族のシンボルとされる。

オスマン帝国がこの地域を支配した時代までは
アララト山の麓にはクルド人やトルコ人と入り混じりながらも
数百万人のアルメニア人が暮らしてきたが、
オスマン帝国末期、とくに第一次世界大戦中の強制移住により
トルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまった。

このとき、相当の数のアルメニア人の人命が失われ、
アルメニア人ジェノサイドとして国際的非難を浴びたが、
トルコ政府はジェノサイドの事実を否認しており、
長らく論争となっている(アルメニア人虐殺)。

その後、1920年のセーヴル条約に基づき、
旧ロシア帝国領側に住むアルメニア人が
アララト山の麓まで領土に含めた
アルメニア国家を独立させる運動に乗り出したが、
旧オスマン帝国領側に獲得した領土は
トルコ革命軍によって奪還されてしまい、
ロシア側も赤軍の侵攻によってソビエト連邦に組み入れられた。

これ以降、アララト山は
トルコ領となるが、
1991年のソ連解体によって独立したアルメニア共和国は
このトルコとソ連によって引かれた国境を承認していない。

アルメニア・ソビエト社会主義共和国時代においても
アルメニア人のシンボルであることは変わらず、
国章にアララト山が用いられていた。

現在の、独立後のアルメニアの国章についても
盾の中央にアララト山をあしらっており、
アルメニア人虐殺とあいまって、
領土要求を警戒するトルコとの間で水面下の対立が続いている。

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