人頭税、いまのニッポンの様に思われます。
【人頭税】
薩摩支配下の琉球王国により
宮古島・八重山諸島において
「正頭(しょうず)」と呼ばれる15歳から
50歳まで(数え年)の男女を対象に
1637年から制度化され、年齢と性別・身分、
居住地域の耕地状況(村位)を組み合わせて
算定された額によって賦課が行われた
(古琉球時代説もある)。
この税制度は平均税率が
八公二民と言われるほどの重税であり、
しかも農作物の収穫が少ない年でも
払わなければならず島民を苦しめた。
この正頭は廃藩置県後も
旧琉球王国の既得権益層への
懐柔のために執られた
旧慣温存策により存続したが、
1893年(明治26年)に中村十作、城間正安、
平良真牛、西里蒲ら4人により、
沖縄本島の官憲や士族らの妨害を乗り越えて、
国会請願書が当時内務大臣であった
井上馨に届けられた。
中村の同郷(新潟県)の読売新聞記者である
増田義一の記事で
国民に周知されるところとなり、
世論の後押しも受け第8回帝国議会において
1903年(明治36年)廃止され、
本土と同様の地租に切り替えられた。
【人頭税石】
-沖縄県平良市(現宮古島市)にある石柱
-この石の高さ(142-145cm)にまで
成長すると税が課された
【クイチャー】
-「クイ(声)を合わせる(チャー)」
-楽器を使わず、かけ声とともに円陣を組んで踊りを揃える
【人頭税廃止のクイチャー(漲水のクイチャー)】
人頭税廃止運動が成功して、
税の廃止の知らせを携えて帰ってきた
真牛などの人物を、歓喜でもって
迎えた様子を表すクイチャーである。
【歌の概要】
人頭税廃止のニュースを保良村の真牛が港にもってきた。船着き場の砂は粟となり米となって上がってくるから、今や宮古の人々は人頭税から解き放たれたのだ。
【井上馨/1836-1915】
第2次伊藤内閣・内務大臣(1892-1894)
【西里蒲(カマ)/1856-】
砂川間切・福里村生まれ
【城間正安(グスクマセイアン)/1860-1944】
-那覇久茂地の生まれ
-1884年、製糖指導員として宮古に赴任
【平良真牛(タイラモウシ)/1866-】
-砂川間切・保良(ぼら)村※生まれ
※城辺(ぐすくべ)
-通称、保良真牛
【中村十作(ジュウサク)/1867-1943】
-越後国頸城郡稲増村※出身
※現在の新潟県上越市板倉区稲増
-宮古島における人頭税廃止に尽力した
以下、連想...
ズミ(宮古島の方言で「最高」)
伊豆見(イズミ/沖縄県国頭郡本部町)
豊見(宮古島出身)=海神
豊(大化の改新以前の后の姓)
豊←豐(礼を行う器)←醴(レイ・あまざけ)
見・美・海
山の幸、海の幸
山幸彦=ニニギ=ヤコブ=イスラエル
彦=ビコ=初子=ダビデ
【宮古上布】
沖縄県宮古島産の上布で、
越後上布とならび夏着尺地の双璧(そうへき)とされる