「1988年の代々木ゼミナール」
彼女は別の高校に通ってた同い年の子で、後に、同じ私立大学に通うことになった。
高校生の頃、夏休みに通っていた予備校の夏期講習で知り合って、高3の夏の終わりから付き合い始めた。哀しくも懐かしの代ゼミ夏期講習。
中学高校と男子校だった僕は、女の子とつきあったことなんか当然なく、テレビの中のアイドルたちに夢中で、平たく言えば、まだリアルな女の子に目覚めてなかった。
女の子に興味がなかったわけでは決してないのだが。いや、興味津々だったのだが、通学のバスや電車で一緒になる現実世界の制服姿の女の子たちは、アイドル歌手のキラキラさと比べて明らかに輝きに乏しく、彼女たちの猥雑な会話は、僕が敬虔に信仰していた「アイドル純粋原理主義」と激しく背反しており、容認できなかった。「女の子とのおつきあい」というベクトルは僕の中には皆無だった。性的な精神発育という観点から言えば、いささかイビツだったのだろう。
高3の夏休み、代ゼミの夏期講習にずっと通っていた。講義が終わって、夜10時の閉館時間まで、講義がない時は朝から晩まで、自習室にこもって勉強するのが日課だった。ラジオのイヤホンを耳に入れ、高校野球中継を聴きながら。その夏は、地元の高校が甲子園で快進撃をして、準優勝した。自分と同年代の、高校野球の代表校の選手には、一生忘れられない夏になるだろう。自分には、夏の思い出とか何も残らないな、と思っていた、最初は。
夏休みの予備校の自習室で勉強していると、気がつくといつも斜め後ろに彼女が座っていた。彼女は2,3人の友だちと一緒の事もあれば、独りの事もあった。最初はまったく気にしていなかったのだが、一週間続くので、さすがにオヤッと思った。
その、一週間たったある日の自習室。確か夏期講習が盆休みで、エアコンの効いた予備校の中はガランとしてた。自習室もガラガラ。相変わらず高校野球中継をイヤホンで聴きながら、朝からそこで数学の問題集を解いてると、昼過ぎに右斜め後ろの机に彼女が一人でやってきた。 夕方になって、休憩に席を立った。机に座って何か書いてる、彼女の横を通りすがりにテキストを見ると、「私立文系 世界史」と、山川出版の史料集。理系の僕にはまったく縁のない科目だった。
缶入りの午後の紅茶を買って、自分の席に帰ると、そこに、僕の席に、彼女が座ってた。座って、僕の数学Ⅲ微分積分のテキストを一生懸命見ていた。高校の制服のような、そっけない無地の白いブラウスにジーンズ。 「あの、何かようですか?」驚いて僕は言った。「数学得意なんやね。ちょっと教えてくれるかな、わからん問題、、、、」そう言って彼女は自分のバッグから「短期集中 文系数学」というタイトルのテキストを持ち出してきて、また僕の席に座った。
僕の席に彼女が座り、しかたなくその隣に僕が座って、三角関数の問題を教えてあげた。なんだか不審な気もしたが、自分の得意科目を人に教えるのは気分のいいものだった。彼女は僕の説明を聞きながら、僕がさっき買ってきて、汗をかいている午後の紅茶の缶を勝手に開けて、当然のようにごくごく飲んだ。
大きな目をまん丸にして、彼女は言った。「おー、さすがN君、名門K大付属高校、、、」。僕はまたびっくりした。「ちょっと、なんで僕の名前とか高校知ってるんですか?」彼女はしまったという風に、ちょっと舌を出して、にっこり笑っていった。「N君のこと、いろいろ知っとうよ私。下敷きの中にアイドルグループの切り抜きいっぱい入れてるのも知ってるしね。」 僕は激しく動揺し、混乱した。顔と耳が充血して真っ赤になっているのが自分でも分かった。その間彼女はニコニコしながら続けた。「友達のカレの山田君が、N君と同じ高校なんよ。その子からN君のこといろいろ聞いたっちゃん。やけんね。」
僕の混乱はピークに達していた。「なんで山田の彼女さんに、僕の事をいろいろ聞いたんですか?」彼女は、もう我慢できないという風に爆笑して、周りの視線を感じてか、口を押さえた。僕の目をじっと見ながら、楽しそうに話す彼女。「N君、K大付属なのに、数学得意なのに、結構おバカっちゃね。あとなんで敬語なん?K大付属のはやり、それ?なんとかですかーって。」 彼女はそう言いながら髪留めをはずして、長い髪を手で軽く梳いた。シャンプーの香りが漂う。楽しそうに荷物をまとめて、バッグを肩にかけて自習室から出て行ってしまった。
「紅茶ごちそうさま。ちゃんと半分残しといたからね。」と言い残して。ドアのところで振り向いて、茫然自失している僕ににっこり笑って、小さく手を振って。
この段になって、さすがに「おバカ」な僕にも、彼女が僕に好意を持ってくれていることを理解できた。そしてボールはこちらに投げられて、今は僕の手元にあることも。
それまで決して感じる事のなかった不思議な気持ちが胸に充満した。
結局のところ、1988年の夏は僕にとって、福岡第一高校の甲子園球児にも負けない、思い出に残る夏になる。
(このストーリー、文中の人物、場所、固有名詞は架空のものです。続き書くかどうか未定です)
なが.
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