中央線月曜日、梅雨。私ですら会社に行きたくない。いつにも増して人身事故がよく起きる中央線。確かに遅れるのもいつもより混雑した電車に乗るのもめちゃくちゃ憂鬱。でもその途端にSNSとかに流れる数々の不満。自分もよく書いてたし、分かるけど。実際書いたところで生産性はない。よく、JRどうにかしろよとか聞くけど、正直鉄道会社がどうにかできる範疇ではないと思う。ブルーライトやホームドア設置とか行われてるけど、飛び込む人は飛び込む。むしろ、自分のせいではないのに人を目の前で轢くことになる運転士さんには頭が上がらない。これだけ交通網が発達して整備されているんだから、これ以上鉄道会社に求めても仕方ないと思う。でもそうすると、飛び込んで鉄道で自殺する人が悪い。って思うけど。確かにもっと人に迷惑かけない死に方はある。でもだからといって飛び込む人だけを責めるべきではない。きっと飛び込むなりの理由があるわけだし。飛び込む人は、無意識のうちにそうしていることもあるという。精神が病んで・・・先進国の中でも圧倒的に自殺者が多いこの日本社会。ある意味、人身事故は社会全体の責任なのではと思う。だから、こういう社会を作っている一人ひとりが考えなくてはいけないのでは。すぐに人身事故を減らすことは難しい。でも今もどこかに、明日鉄道に飛び込もうとしている人がいるなら。まだその人が生きている今、その人の近くにいる人が、何かに気づいて・・・。
シェアするということ家族以外と住居を共にするということは、人生でもあまりないような気がする。 アメリカに留学していた時はアメリカ人のルームメイトとの二人部屋で、キッチンやシャワーなどは15人くらいで共有していた。 なかなかカオスな生活だったけど、それが異文化だったからなのか、刺激的で楽しかった。 だから日本でもできるかなと思って、2ヶ月前からしている。 理由は、通勤時間が圧倒的に短くなるからということと、安いから。あと中央線のちょっと下町っぽい魅力がある街だから。 シェアしたくてしてる訳ではないけど、実際はなかなか楽しい。 帰れば誰かいて、気兼ねなく話せる。でも、親ほど干渉してこない。 でもイライラも結構ある。 キッチンとか水回りの使い方は気になる。 まな板、野菜切る方と肉切る方分けてるのかとか三角コーナー誰も替えてくれなくて異臭漂ってたりしていつも自分がやってたりとか。 それでも赤の他人なんだけど誰かと暮らしていることは安心感を与えてくれる。 なんでだろう。一緒に住むことで人は家族のようになれるのかな。 家族じゃないけど、家族。 住居のシェアは、絆のシェア、かもしれない。
日本酒自分は酒にかなり強い方に分類されるのだと思ってた。でもそれは、サワーとかカクテルしか飲んでいなかった大学前半の話。大学生は基本的に質より量。とにかく飲む。そして潰れる。それが楽しかった。何かやらかしてそれを持ちネタにしていくのがステータスみたいなところがある。次の日授業を休んだとしてもそのつけは自分にまわってくるってだけ。私の部署御用達の居酒屋は、日本酒が美味しいという店。一見普通の大衆居酒屋なのだが、頼むとめちゃめちゃ色んな種類の日本酒が出てくる。飲み放題でなんとなくしか飲んだことがなかった日本酒。特徴を聞いて、とりあえず自分に合いそうなものを頼んでみた。山の雫と、浦霞だったかな。正直まだ味の違いはよくわからなかった。でも、美味しそうに飲んでみた。そしたら美味しく感じてきた。ビールがチェイサーですって言って先輩を笑わせたのも束の間。二杯飲んで私は潰れた。帰った記憶はない。大学生と酒の種類が違うだけで、飲み方は変わらないじゃんと思ったが、どんなに記憶を飛ばしても、身体にアルコールが残りまくっていても、次の日一応何事もなかったように会社に来なくてはいけない。先輩が前に飲み過ぎて次の日午前半休をとったら、「たるみすぎ」と怒られたと言っていた。そりゃそうだけど。それが働く人の宿命。しばらく日本酒はいいと思っていたら、「次は焼酎だな!」
一ヶ月「社会人」になって一ヶ月が経った。社会人っていうと、いかにも学生とそうじゃない働いている人々を分けているというか。そもそも社会の人って何?学生も子供もみんな社会を構成する人たちじゃないか。とにかくこの言葉を使う限りなんとなく日本のこの均一化された仕組みがなくならないような気がしてあまり好きではないので、「働く人」という風に呼ぶことにする。改めて「働く人」になって一ヶ月が経った。(言ってはみたもののなんか不自然。笑)自由に生きてきたこれまでからしたら異様とも思えるような、年功序列を拝む慣習や、よく分からない決まりに頭を捻りつつも、それが業務と人間関係を円滑に営むうえで効率化されてきたものなのだと気付き、妙に感激することもある。いずれにせよ、一ヶ月ではもちろんまだ染まりきれない。四週間弱は同期との研修だった。約30人ほどの同期たちと、毎日同じ席で顔を合わせ、朝から夕方まで様々な話を聞くのは、まるで高校時代に戻ったようだった。安心感があり、とても居心地が良かった。なんとなく自分の居場所が確立しきれなかった大学時代と比較すると、自分の席が決まってあるということは、安心感を与えてくれたのだ。しかしそれも束の間。配属され、オフィスに放り込まれた途端、周りは年次の異なる人だらけだし、同期とすれ違っても「おはようございます」なんて改まらなきゃいけないし・・・こんな世界でこの先何年も生きていかなければならないかと思うと気が遠くなった。でも、仕事をする意味を考えた時、その気持ちは少し楽にもなった。なんのためにこの会社へ入ったのか。自分がこれからすることは、どういうふうに、何かを変えるのか。まだ明確でないこともたくさんあるけれど、自分が行っていくことが、必ず誰かのためになり、何かを変えていくということは、確かだ。そして自分はお金をもらい、自分自身を養っていく。それはすごいことだ。やはり甘んじてはいけないし、頭を捻るような慣習にもとりあえずは従わなくてはいけないのだ。この先どうなるかわからないし、今から今の仕事を辞めることを考えたくもない。だから、自分のしていくことが最後には何かを大きく変えると信じて。この会社に入ると決めた時の信念と夢を決して忘れないで、とりあえず立派な「働く人」になっていこうと思う。