「春草さん、」
コンコンとノックをすると中から返事が返ってくる。扉を開けると、ランプの灯る室内には墨の匂いが漂っていた
「何、どうしたの」
「ええと、特に用事はないんですけど。おしゃべりしたいなあって」
机に向かっていた春草さんは「何それ」と笑いつつ手招きしてくれた。扉を閉めて春草さんの傍に駆け寄ると、机の上のものに目がいった
「手紙を書いてたんですか?」
手紙は2通ある。さり気なく裏返した方には文字がびっしり書かれていた。おそらくそちらが春草さん宛ての手紙だろう
「…‥…うん、実家から」
少しの間をおいて答える春草さん。何だか様子がおかしいと思っていると、「おいで」と誘われて膝の上に座らされた。後ろから回された手が離さないとばかりに私のお腹あたりで交差する
私はその上から自分の手を重ねつつ、裏返されていないもう一通の手紙を眺めていた。それはおそらく彼が実家に宛てて書いているもの
「…‥…‥…‥…‥」
たった一行しか書かれていないにも関わらず、最初の文字すら読めない。春草さんの字が汚いのではなく、筆で書かれたそれが達筆すぎて読めないのだ
「何見てるの」
必死に解読を試みている私を怪しんだ春草さんが私の視線の先を辿る
「おもしろいことは何も書いてないけど」
「ええっと、その‥…‥…何て書いてあるんでしょう?」
「は?君、一応文字は読めるんじゃなかったの?反対から読むなんてすごい芸当やってくれたけど」
銀座に行ったとき、右から左に書かれた
『店計時部服』
を左から右に読んだのは数ヶ月前のこと。早く忘れて欲しいのだが、彼は未だに覚えているらしい
「これは、下から上に読むんじゃなくて、上から下に読むんだよ」
懇切丁寧に教えてくれたけど、そういうわけではなく文字が読めないのである。恥を忍んで素直に自供した方が良いと判断した
「その、春草さんの字が上手すぎて‥…文字が読めないんです」
「‥…‥…汚いって素直に言えばいいのに。逆に傷つくんだけど」
「違います!本当に達筆すぎるんですよ!」
「どうだか」
春草さんはため息を一つこぼすと机の上にあった余分な紙を一枚取り、筆を握った
『皆々様御機嫌克』
紙いっぱいに楷書で書かれてようやく分かった。この時代の字って読みにくい。草書って言うのかな、流れるような字で書かれるとただのくねくねした線にしか見えなかった
その上、言い方がまどろっこしい。どうして言葉通りに書かないのだろう。文字の解読が終わると意味の解読をしなければならない
「分かりました!!『皆さん、お元気ですか?』って聞いてるんですよね」
「丁寧に書かないと読めないなんて…‥」
春草さんは呆れ顔で呻いた
「まさかとは思うけど、これも読めないって言うんじゃないだろうね」
そう言って紙の余白部分にさらさらと何かを書いた
「‥…‥…‥…‥…分かりません」
4文字の言葉だというのは彼の手つきを見て分かったが、紙の上で踊る模様は奇々怪々でさっぱり分からない
「え…‥…じゃあ、これは?」
綾模様の隣に書かれた文字も4文字。こっちは何とか解読できた
「綾、月、芽、衣。私の名前ですか?」
きっと奇々怪々とした隣も、私の名前を書いていたのだ。一番簡単な『月』すら読めなかったけど
「読めるんだ。えらいね」
棒読み口調の彼は、明らかに褒めていないだろう。かと言って、馬鹿にしているわけでもなさそうだが
「春草さん、私も何か書きたいです」
「どうぞ」
筆を渡されると、緊張する。何せ書道は中学校以来だ。筆に墨をたっぷりとつけ、新たに用意した真っ白な紙の上に筆を滑らせる。その動きは決してなめらかとはいえずぎこちないものだったが、何とか書き終えることができた
止めていた息を吐き出してことりと筆を置くと春草さんが覗き込む。次の瞬間、彼は顔をしかめた
「‥…‥…個性的な字だね」
コメントに困ったらしく彼が言葉を発するまでが長かった
「筆で書くのは久しぶりだったので。これでも一生懸命頑張ったんです」
「ふうん。じゃあ君は、今まで何を使って字を書いてきたの」
「え?シャーペンですけど」
「しゃーぺん??」
「あ、えっと!鉛筆です、鉛筆」
机の上に彼が普段下書きの際に使う鉛筆が転がっているのを見つけて、手に取った。筆で書いた文字の隣に、同じ言葉を書く
「ああ、こっちはまともな字だ」
「ま、まともって…‥…」
「まともだよ。『菱田春草』ってちゃんと読めるから」
「隣は読めないって言いたいんですか?」
筆で書いた方を見ると、墨をつけ過ぎたせいか文字がつぶれてしまっている。読みにくいけど、読めないこともないはずだ
「君と手紙のやりとりをしたら大変だろうな」
春草さんは、私が書いた文字を見て笑っている。だけど、その笑顔にはどこか翳りがあった
不安に駆られた私が手をぎゅっと握ると、彼は怪訝そうに見上げた
「何」
「春草さんがどこかに行ってしまいそうな気がして」
「は?俺はどこにも行く予定はないけど」
そう言うものの、春草さんの視線の先には実家からの手紙があった
まさか…‥…
「学校辞めてしまうんですか?」
「え?何、急に」
「もしかして、実家に帰らなきゃいけないんですか?春草さんとお別れしなくちゃいけないんですか?」
出会ってまだ一年にもなっていないのに。彼がいなくなったら広いこの屋敷がもっと広く感じるに違いない
「それなら私も、一緒に連れて行ってください」
「落ち着きなよ、そうじゃないから」
春草さんは裏返していた手紙をひっくり返し、手元に寄せた。ある場所を指で示すけれどその字は春草さん以上に達筆すぎて読めない
「その‥‥…簡単に言えば、そろそろ身を固めろって話」
「え…‥……‥…」
冷や水を浴びせられた気分になった。彼の存在が一気に遠くなったように感じた
「お見合い、ですか?」
無言で頷く春草さんの表情は堅い
「‥…今までもあったんだ。全部断っていたけど。俺は絵にしか興味がなかったから」
それは私が一番よく知っている
「でも、来年には俺も学校を卒業するし、画家なんて不安定な職につこうとしてるから、親も不安なんだろうね」
‥…私じゃ、駄目なんですか?
言い掛けて口を閉ざしてしまった。きっと春草さんの両親が願っているのは、しっかりした後ろ盾がある人との結婚だ
だとしたら、私じゃ駄目なんだ。親もいないし、鴎外さんの家に居候しているだけの私は、何の役にも立てない
「…‥…だからね、芽衣。こんな形になってしまったけど、」
--別れよう
そう言われると思った私は、春草さんの口を塞いだ。お互いに傷つくのが変えられない未来だとしても、少しでも先延ばしにしたくて
「‥ん、…‥…芽‥…‥…衣、…‥…」
名前を呼ばれるのがこれで最後かもしれないと思うと、涙が出てきて止まらない
息が苦しくなっても離れようとしない私を、春草さんが無理矢理引き離した
「芽衣、」
「嫌です。ならばせめて私を愛人にしてください」
「は…‥…‥…?」
「たとえ、他の女の人と結婚しても、私に会いに来てください」
「芽衣」
強い口調で名前を呼ばれ、身体が強ばった。言葉は止まっても、目からこぼれる涙は止まりそうもない
「はあ‥…‥…いつものおめでたい君はどこに行ったのかな」
涙でみっともないことになっている私の顔を春草さんが指で優しく拭いてくれる
「芽衣、今から大事な話をするから。ちゃんと聞いて」
春草さんの瞳には、覚悟を決めたような光が灯っていた
「‥…‥…‥…はい」
「芽衣、」
「俺と、結婚してください」
私の想像と180度違う彼の言葉に、声が出なかった
「本当は、俺が学校を卒業してから、ちゃんとした形で言うつもりだった。現実は、こんな中途半端な形になってしまったけど」
「でも、俺が君を幸せにしたいっていう気持ちに嘘はない」
「芽衣、俺と家族になってくれませんか」
春草さんの真剣な言葉に私の中の止まっていた刻が動き出す。それは、言葉じゃなくて、涙として現れた
そんな私に、春草さんが柄にもなくオロオロとしている。「ごめん、嫌だった?」なんて、悲しそうな声で言うものだから、余計に涙が出て止まらない
「‥…‥…私、ずっと、ずっと、春草さんのお嫁さんに、なりたかったんです。だから、嬉しくてっ…‥…」
春草さんに抱きついて嗚咽を漏らす私の背中に、優しい手が触れる
「芽衣…‥…‥…ありがとう」
「春草さん、私と結婚してください」
「うん。君の人生を俺の色に染めたい」
「ありがとう、ございます」
春草さんからの口づけは、いつもより甘くてこれが幸せの味なんだと思った
「てっきり、別れ話かと思ってました。春草さんの顔が暗かったし、何より言い方がまどろっこしいんです」
春草さんに手紙の内容を詳しく聞くと、ご両親の不安というのは彼が結婚に興味がなさそうだと思っていたことらしい
今まで見合い話を『面倒くさい』『興味がない』と言って蹴っていたからそのせいだろうな、と本人は他人事のように笑っていたけど…‥親にしてみたらすごく心配すると思う。密かに彼のご両親に同情した
でも、今回の見合い話には『心に決めた人がいる』と言って断ったらしい。そうしたら、さっさと挨拶しに来い、と催促されたそうだ
「まあ、悪かったとは思うけど…‥…何て言えばいいのか分からなかったんだから、仕方ないだろ。それよりも俺は、君の愛人発言に度肝を抜かれたんだけど」
「あ、あれは!春草さんと別れたくなかったから…‥…ほら、やっぱり春草さんのせいです!」
ぽかぽかと春草さんの胸元を軽く叩く
「はいはい。俺は最初から君以外の女性と結婚するつもりはないんだから、愛人なんていらないんだよ」
「春草さんが私のことを嫌いになっても、離婚なんてしませんからね。私の所から逃げても世界の果てまでつきまといますからね」
そんなことをすればもはやストーカーである。でも、私は春草さんが傍にいないと落ち着かないのだ
「もちろん。君も、ずっと俺の傍にいなよ」
「はい!」
即答した私に春草さんが妖しげな笑みを浮かべる
「‥…‥…‥言ったね」
「へ?…‥…きゃあ!」
私を抱き上げて春草さんが向かった先はベッド
「ああああの!?」
「俺の傍にいてくれるんだろ?」
「い、言いました、けど‥…」
(まさか、今日初めてを…‥…?)
ごくり、と唾を飲み込んだ私にかまわず春草さんは私を抱いたままベッドに入ると、そのまま目を閉じた
「あ、あれ?」
小さな呟きに、春草さんが目を閉じたまま「何」と尋ねてくる
「いえ、何でも‥…」
よくよく考えればここは明治だ。現代よりも情操観念がしっかりしているこの時代、婚約してもそういう関係にはならないのだろう
「ああ、抱いて欲しいの?」
「ひゃい!?」
納得しかけた傍から、それを覆すような言葉が飛んできて焦った。ぶんぶんと首を横に振る私を春草さんは楽しそうに眺めていた
「冗談だよ。する訳ないだろ」
「で、ですよね…‥…」
うん、やっぱり明治はこうなのだ。安心したやら悲しいやら、変な感情が心の中をぐるぐる巡る
「その代わり、」
小さな口づけを額に落とすと、彼は私の耳に唇を寄せた
「結納が終わったら、たっぷり可愛がってあげるから」
「~~~っ!!!」
「おやすみ」
私の心臓を破裂寸前に追いやってから、自身はさっさと寝てしまう春草さんはすごく意地悪だ
だけど。
これから先も、彼に意地悪され続けるんだろうと思うと、すごく嬉しい
ずっと、一緒にいてくださいね
私だけの、旦那様