生まれて初めて恋をした
なんて、陳腐な言葉を使う日が来るなんて思わなかった
けれども、あたしはその人に恋をした。話をしたこともないし、名前も知らない人だけど
その人に会えた時は胸がドキドキする。会えない時はとても悲しい。そんな風にあたしを喜ばせたり悲しませたりする人なんて、生まれて初めてだ
初めてその人に会ったのは画材店だった。美術部に所属しているあたしは、その日絵の具を買おうと思い、下校中に立ち寄ったのだ
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「学校帰り?」
「はい」
お店のオーナーさんはまだ30歳くらいのきれいなお姉さんで、あたし達は結構仲が良い。オーナーさんはあたしの中学の先輩にあたる人で、しかも美術部員だったからいろいろ相談にのってもらってる。今日みたいに買い物する時だけではなく、ただお喋りするためだけに来たりもする
今日も買い物のことなどすっかり忘れて、オーナーさんとレジの前で話し込んでいた。そんな時、横から声をかけられた
「すみません」
「あ、」
まさか他にお客さんがいたなんて思わなかった。かなり大きな声でお喋りしてたから迷惑だったかもしれない
「ごめんなさい」と下がりながらちらっとその人の顔を見て、
一瞬で恋に落ちた
肌は白くきめ細やかで、中性的な顔立ち。長いまつげに縁取られた緑色の瞳は吸い込まれそうなほど透き通っている。こんなに横顔が整っている人を初めて見た。会計を済ませ私のすぐ側を通るとき、男の人にしては長い若草色の髪がはらりと舞った。店をあとにした彼にあたしの目は釘付けだった
しばらくの間、その人が消えたドアを見つめていると、オーナーさんがちょん、とあたしのわき腹をつついた
「びっくりしたでしょ」
「は、はい……あんな格好いい人、初めて見ました」
初めて見たどころか初めて心を奪われたんだけど
「私も最初に見たとき心臓が止まるかと思ったわよ。『うわっ、イケメン来た!』ってね」
その時のことを思い返しているのか、オーナーさんは胸に手を当てながら頬を少し赤らめている
まあ、気持ちは分かる。いきなりあんな素敵な人が目の前に現れたら、誰だってトキメキを感じるはずだ
「あの人、よく来るんですか?」
「そうね~…数ヶ月前くらい前からかな。よく日本画の顔料を買っているわ」
「日本画、ですか……」
残念ながら部活でも日本画を描いたことはない
「そうだ!今度会えたときに、日本画の描き方を教えてもらえばいいのよ」
「えぇ!!何でそんな話になるんですか!?」
「ああいうイケメンとお近づきになれる機会なんてそうそうないわよ。絵の勉強もできてお得じゃない」
「無理ですって!第一、あたしみたいな子供、相手にしてくれるわけ…」
どう頑張ってもあの人は中学生には見えない。たぶん大学生くらいだと思う
「まあ、無理にとは言わないから。でも、また会えるかもね、この店で」
そう言って悪戯っぽくウインクしたオーナーさん
その日以来、あたしが店に立ち寄る頻度が増えたのは言うまでもない
2回目に出会ったのは、公園だった。スケッチするために公園に足を踏み入れたあたしは、先客がいることに驚き、しかも数日前に画材店で一目惚れした彼だと気付いてさらに驚いた
彼に見つからないようにこそこそ移動したあたしは、木陰からそっと覗いた。ベンチに腰掛けている彼は隣で寝そべっている野良猫になにやら話しかけながら筆を動かしている。猫に向ける微笑みはとても優しくてついつい魅入ってしまった
自分はスケッチをするために来たんだと言い聞かせて、あたしも絵を描き始めたけど、彼が気になってなかなか進まなかった
しばらくしてふと顔を上げると、彼はいなくなっていた
そんなこんなで、ほぼ毎日画材店に立ち寄り、休日には公園に向かうこと数ヶ月。店や公園で何度かその人に出くわしたけど、未だ名前すら知らない。そんなあたしの状況が一変したのは勇気を出して話しかけてみようかな、と思い始めたある日のことだった
その日、あたしと彼は画材店にいた。いつものように、買い物を済ませ店を出て行く彼をそれとなく目で追っていたあたし
(はぁ、今日も話しかけられなかった……)
心の中でぶつぶつ呟いていると、「春草さん!」と明るい声が聞こえた。バッと顔を上げるとガラス越しに高校生の女の子が立ち止まった彼に駆け寄るのが見えた
「珍しいね、君がこの道を通るなんて」
「今日春草さんのお宅にお邪魔しようかと思って。学校からだとこの道が近いんですよ」
「ふうん」
「そうだ、ケーキ買って行きませんか?」
「君さ…」
「へ?」
「本当は甘いもの目当てでこの道を通ったんだろ」
「なっ!………違いますよ」
「どうだか」
その後も会話を交わしながら2人は店の前から去っていった。笑いながら手をつないで歩くその姿は誰がどう見てもカップルだと思うだろう
「あー……やっぱり恋人いたんだ」
残念そうにカウンターに突っ伏すオーナーさんにあたしは笑顔を作って言った
「仕方ないですよね。あんなに格好いい人なんですから」
そう、仕方ない。幸せそうなカップルの間に割り込むことなんてできない
頭の中で必死に言い聞かせても、心は悲鳴を上げていた
(なんで!?なんでお姉ちゃんが……)
あの人の隣で笑っていたのはあたしの姉だった
涙を必死にこらえながら家に帰ったあたし。「ただいま」とおざなりな挨拶をして2階の自分の部屋に駆け込んだ。制服姿のままベッドに飛び込み枕に顔を押し付けると、もう止まらなかった。下にいるであろう両親に聞こえないように声を押し殺して泣いた
目を閉じると浮かんでくるのはさっきの光景
あの人とあたしの姉が笑顔で去っていく
「こんなの、こんなのって、あんまりだよ‥」
あたしと姉はあまり仲が良くない。幼い頃は仲良しだったような気もするけど、いつからかあたしが姉を避け始め、姉もあたしを避け始めた。だから、あたし達は極力話さない
姉はあたしのことをよく知らないだろうし、あたしも姉のことをよく知らない。姉が笑う顔だってほとんど見たことがない
もしかして、これはあたしが姉にした仕打ちへの罰なのだろうか。あたしが姉を避けたことに、姉を一人ぼっちにしたことに、神様がお仕置きをしたのだろうか
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
あたしがしたことを許してくれるのは神様じゃない
分かってはいても、姉と顔を合わせたくなかった
姉にちゃんと謝ることができないまま、その日はずっと部屋に閉じこもっていた
〈つづく〉