倉橋由美子 『聖少女』
を読んだ。
事故で記憶をなくした、アムネジアの美少女・未紀。
未紀の婚約者のKは、未紀に事故前の彼女が綴っていたノートを手渡される。
そのノートから、Kはうしなった未紀の記憶、未紀そのものを手繰り寄せ・・・。
わたしは、本当の意味で面白いと思える本、というのはあまり無いと思っていて、
それは感受性が鈍いからだとも考えられるけれども、本?文学?物語?文章?論文?で琴線に触れる、という体験は稀なのよ。
面白い、ということには幾つかのパターンがあって、
学術的な価値・意味がある面白さ、目新しい面白さ、すうっと肌になじむ面白さ、
とかいろいろあるのだけれど、
『聖少女』は久々に、頁をめくるのが愉しみで仕様がなかったわ!
この作品には、大きく分けて、二つの展開があるのよね。
ひとつは、記憶をなくした未紀の手記のパート。
これが見事で、ぶったまげる。
日本語に潜む耽美性。
漢字とひらがなとカタカナのヴァリエーション。これを巧みに使って、甘ったるい自意識を暴走させっぱなしにしているのよ。
この、強烈な作家性!
作中に登場する「作家」(Y・Kという。倉橋由美子と読みとらせたいのよね。歳の頃も同じくらいだしね)
は、
このノートの記述を、「小説」だと云うのよね。
「嘘よ、嘘っぱちよ」という台詞。映画の台詞も効果的に使われていて、
この作品自体、「嘘」「小説」という概念が、特別な響きをもって迫ってくるのよねえ。
ノートに書かれている中身、内容は、
未紀と「パパ」とのこと。
ブッ壊れた一人称小説みたいな感じで、パパとの関係、パパへの張り裂けんばかりの思慕を綴っているのよ。
この「パパ」ってのが、この作品の鍵でもあるんだけれど、
ノートによると、40代半ばのセクシーで知的な歯科医。よくもてるプレイボーイタイプの男性よ。
ノートに従えば、母の昔の恋人で、「未紀」は実の父親ではないかと疑っている、という設定。
このノートには、本当の部分と、嘘の部分があって、
読み進めていくうちに、真実と作り物の箇所がはっきりしてくるのだけれど、
まあだいたい、パパのことも想像がつくんだけれど、
読んでいるうちに、嘘の部分を愉しみたくなってしまうのよね。
それがこの作品の魅力だわ。
文章が佳くって、日本語というものを識りつくしているのね。
ただれた感情を表現する適切な日本語。音の響きや、視覚的な効果が素敵ね。
壊れているフリして、計算ずくね。悪い子。
こういう妙に、言葉の感覚に研ぎ澄まされているところ、が未紀を他の女性と隔てる部分で、
美少女の外見と相まって、もう一人の主人公・Kを魅了するのよ。
もう一つのパートは、未紀の婚約者であるKの一人称小説みたいね。
未紀のパートから感じられるKは、未紀の信奉者のそこそこに健全な青年なのだけれど、
その実、Kはものすごく悪いコなのよ。
澁澤が訳してそうな仏文学をこよなく愛する類のクサレインテリ(あら下品で御免あそばせ)で、悪徳をこよなく愛する。
仲間たちとおこなった犯罪の数々も、うんざりしちゃうわよ。
そうとうイカレてやがるわ。
そのKが、未紀に対してだけは純粋で清らかにも感じられる特別の感情を持っているのよね。
未紀には、知的に敵なしのサディスティックな美少年も、飼い慣らされちゃうのよね。
このKと実の姉・Lとの関係も、
未紀とパパのようなのよね。
この話のテーマは、近親相姦らしいのだけれど、
同じ家で育つ親しみと優しさと共感、みたいなものは皆無で、
苛烈な感情で相手を欲しているのよね。
この作品の登場人物は、産まれたときから、男あるいは女であって、そういう視線にさらされることに快感を覚える性質でしょう。
この作品のもっとも際立ったところは、
「嘘」「小説」「作り物」を愉しむ、という仕掛けが随所に為されているところじゃあないかしらん。
結末。
わたしたちは、ずっと少年や少女のままではいられないけれど、だからといって、瑞々しい感受性を閉じていこうとする必要ないんだわ。
その、ふてくされてる、みたいな唇。好きよ。大好き。
