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サガン、河野万里子訳 『悲しみよ こんにちは』 Bonjour tristesse


を読んだ。



移ろいやすい気持ち、明るさと愚かさを愛しながら、知性の鋭さで物事を見つめる。



主人公のセシルは17歳なのだけれど、

放蕩で根っからの遊び人気質の、でもけっして悪い人ではない、父と同じ種類の人間だという自覚があって、

年相応ではない、と本人が自覚しているように、かなり早熟。

それで、感受性がつよく、自分では気づいていないところで非常な知性がある。


母親の友人で、のちに父と婚約するアンヌという女性に抱く強い感情。

アンヌはセシルや父とは違い、もの静かで洗練されたかなりの美女なのよねえ。



明るさや愚かさ、喧騒を愛し、

強い気持ちを持続することができない、一貫性のない性質。刹那主義。快楽主義。

同じ性質をもつ父とセシルが決定的に違うところは、深い感受性と知性なんだよねえ。

セシルは人や物事をよく見ていて、強い感受性を鋭い洞察を併せ持っている。

アンヌが父のことを好きになるのだろうか、と逡巡したり、あれやこれやと巡らせる考えは、どれも的確。


セシルは、アンヌの品の良さや落ち着きに強烈な憬れを抱くのだよねえ。

それでも、セシルは、アンヌが愛する秩序や順序や考え方の清潔さに蹂躙されることは我慢ならない。

セシルは、アンヌの品の良さとか洗練や継続性を正しいと思っている。

しかし、だからといって、その正しさで、セシルと父が愛する快活さや刹那性を、まったく意味のないもののように扱われ、捩じ伏せられていくことに耐えられない。


だから、ほんの少し、認めさせようと、

アンヌと父を仲たがいさせる計画を画策するのだけれど、

これが人を巻き込んだ大仰なもので、物語のラストには大変な結末を引き起こすのよねえ。


セシルは、観念的な存在として見てきたアンヌが、愛する人の幸せを願って生きる生身の女性だということを、取り返しのつかないことをして初めて深く、知るのよねえ。



セシルがヴァカンスの間に恋仲になるシリルという男の子がいるんだけれど、

25歳の男性も、早熟なセシルにしたら、「若い男の子」というカテゴリーなのよねえ。

8歳も年上にもかかわらず!


このシリルへの感情は強いものだし、夢中になっている最中は、会いたいと切実に願っている。

でも、あるとき、ふっと、このひとを愛していない、と思ってしまうのよねえ。

そうしてまた、別の恋をする。



この作品がなぜこんなにも評価が高いかというと、

決定的なラスト、陰惨な結末を嘆くところで終わらないからなのよねえ。


アンヌをあんな形で失った父とセシルは、もちろん悲嘆に暮れるんだけれども、

継続性や一貫性をもたない、もてない彼らは、一か月ほどで、今までと同じように生活するようになるのよ。

遊び人の、派手で、楽しい生活を。


それでも、ふとベッドでひとり眠れない夜に、「アンヌ、アンヌ!」と深い暗闇の中でくりかえす。

その感覚は、とても切なく、苦しい。


「悲しみよ こんにちは」



とほうもない空虚!


快楽主義の、虚無感!!

















そんなことないよ、って、ああそれは優しい嘘。