谷崎潤一郎 『卍』
を読んだ。
ああ!素晴らしい!!
久しぶりに、ほんとうの意味で面白いと思う小説だわ。 いやはや、参った!
谷崎潤一郎の小説は、モチーフは素敵だと思っていたのだけれど、どうにもしっくりこなくて、
あまり好きになれないでいた。
それなのに、どうしたことか!
娯楽性と芸術性が高いレヴェルで融合していて、なんといってもスピード感がある。
物語は、柿内未亡人園子が、「先生」なる人物に対して告白をする形式ですすんでゆく。
話し言葉で語られるのだけれど、園子の言葉っていうのが上方言葉の大阪弁で、
これが非常に、劇的な物語を聞かせるのに、ふさわしい。
園子はまず、自らの境遇、というか、夫を持つまでの経緯を話し始める。
夫は学者肌の頭のいい大人しいタイプの人間で、弁護士をやりながら勉強を続けていて、
園子はなかば婿を取る、ような形で、園子の親からも援助を受け、嫁ぐ。
それで若くして奥様になるのだけれど、
園子は激情に駆られる激しい性質に対して、夫は大人しく事勿れ主義で、肌が合わないということもあってか、あまり上手くいっているとは云えない。
それでも、不仲といった感じはなくて、まあまあの生活を送っている。
園子は絵をならいに、学校へ通うのだけれど、そこで徳光光子に出会う。
この光子との出会いというのがまた妙で、二重に仕組まれたものなのだよねえ。
光子は、絶世の美人で、
園子はそういう部分もあって、実際に話したりする前に、心惹かれていた。
それで、ふたりの関係が始まる、といった具合。
冒頭の段階では、光子はもう既に故人だということが明かされていて、
新聞沙汰になるような何か、が起こったらしい、ということが分かる。
1年前、園子24歳。光子23歳。
今のわたしとほぼ同年齢の二人なのだが、圧巻!
まあ、何よりこの作品が美しいのは、園子の口から語られる、ということだよねえ。
園子の激しい性格と、思い詰めた心情が、まっこと佳く伝わってくる。
作中で使われる関西弁や人々の様態は、
華美で、派手で、けばけばしく、ほとんど見苦しいくらいに鮮やかで、色が濃い。
『卍』という小説自体が、派手でけばけばしいくらいに鮮烈なのよねえ。
園子の口から語られることで、もう一つ効果的なのは、光子に神秘性を持たせられることだよねえ。
徳光光子、という名前は、今風の感覚でいうと、さほど洒落た名前でもないような気がするんだけれど、
「徳」「光」「光」子、ですからね。
神々しくて、観音様のモデルになるようなイメージもありますか。
この観音様の画も、最後の最後で、良い味効かせるのよねえ。
光子は、いわば毒婦のようなところがあって、人を惑わすし、何を考えているのか実のところ最後まで分からない。
家柄の良いかなり美しい容姿の持ち主であると同時に、人に取り入る手管の持ち主。
そう、最初は下手に出て甘えるそぶりを見せるのだけれど、どんどん浸食して支配していく。
光子は作中で二人の男性と関係するのだけれど、
この二人の男性との関係性というのがえらい特殊なのよねえ。
読み始める前は、女性同性愛の話だと思っていたのだけれど、
そんなに単純な構成ではなくって、園子と光子との関係は物語の軸だが、それだけじゃあないのよねえ。
さすがに文豪と言われるだけあって、目まぐるしく場面が展開していく。
劇的な展開が次々に起こって、どんでん返しの繰り返し。
主要登場人物は4人なのだけれど、まあ、人や物の動かし方、結び付け方のエピソードが苛烈。
同性愛というと、密室的にしてしまいがちなんだけれど
自分たちだけの密室に連れ込んでしまう、まっすぐな荒廃。
ああ、あとここらへんも文豪と言われるだけある、と思うのは、
園子と光子の同性愛における、具体的な肉体の描写があまりないところ。
それは、園子の口から語られるという場面で、写実的に表現するのは不自然だからなのだけれど、
具体的な肉体関係の描写があったとしたら、その部分に焦点を当てられ過ぎてしまうし、
話としてのバランスが悪くなってしまうのだよね。
谷崎潤一郎が、いかに魅せることの上手い作家か、ということを知ったわ。
いやあ、息をする間もないくらい、鮮烈さに呑まれた!
わたしは関西人で、大阪にもまま馴染みがあるけれど、
作中の言葉は、ふるくて美しく鮮烈な上方言葉よのう、といった風情。
感情を顕わにするときの激烈な感覚に、くらくらする。
行き過ぎている感覚、思い詰めることへの高揚感。 たまらないねえ。
ああ!恍惚!!
