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松浦理英子 『セバスチャン』


を読む。


21歳の主人公・麻希子とその主人・背理の「主従関係ごっこ」を描く作品。


松浦理英子は、処女作『葬儀の日』から3年、そしてこの作品から4年後に『ナチュラル・ウーマン』を発表する。

まさに、この位置づけがふさわしい作品といえる。

『セバスチャン』からの『ナチュラル・ウーマン』なのだな、と実感する。


松浦理英子が純粋に、書きたいものをかけていたのが、 『ナチュラル・ウーマン』までだと思うのだけれど、

『セバスチャン』があったからこそ、『ナチュラル・ウーマン』があれほどまでに純度の高い作品になったのだなあ。


『セバスチャン』は、わりと中途半端な作品で、『ナチュラル・ウーマン』まで踏み込んでいけていないのだよなあ。


踏み込んでいけていないというのは、

背理の人間的魅力が乏しい、というべきか、わかりにくいので、

麻希子がどうしてここまで入れあげるのか理解できないし、

自分の欲求を満たしてくれる要素を持つ人物、なら別にほかにもたくさんいるような気がする。

それこそ、本物の人がね。


だけど、そういう未発達さ、というか人付き合いにおける未熟さが、麻希子の人物造形のカギなのだよね。


ここで問題にされることなんだけど、

どうやら、松浦理英子の認識では、21歳、ハタチそこそこっていうのは、

もうすでに成長しきっていて、揺るぎない人格が確立されているっていう前提があるのだよね。


それは、つまり、

葬儀の日、セバスチャン、ナチュラル・ウーマン くらいの作品の登場人物は、

20そこそこの大学生で、教養が深い という彼女自身の境遇がベースになっているからなんだよね。


というのも、それらの三作品は、松浦理英子が、20歳、23歳、27歳のときの作品だということが大いに関係があると思う。


松浦作品の登場人物は、

アカデミックな場に属しているかどうかに関わらず、基本的にインテリで、

自分のもやっとした印象を、とても上手く言葉で表明することができる。


それは繊細で過敏な感覚をもって、でも爆発しないでいられる教養がある人間だからなんだけれども、

ここまで行き届いて洗練された言語感覚をもっている時点で、登場人物みんな同じ穴のムジナという感じもするね。


さてと、

『セバスチャン』の話に触れると、


「私にとっては男も女もないのよ。自分を女だと思ったこともないし。私は単に世界にこぼれ落ちた無防備で無装飾の一個の肉体であって、世界に料理されることを待ち望んでいるだけだから。世界が男であろうと女であろうと関係ないの。私には、自分と自分にかかわって来る力があるだけなの」 (河出文庫、p.154 )


という麻希子の言葉がテーマになっているような話なんだけれど、

こういう考え方は、卑近な云い方でいうと、子どもっぽい、というか、周りを見る余裕がない、という風にも受け取ることができて、

当然、作中でも指摘されたり、非難されたり、批判されたり、し続けるのだよね。


SMに移行するほどの自認とか信念を確立できているわけでもないし、すごく甘い。

ただ、そういう甘さは、実のところ、ほとんど健全なんだよね。

踏み込んでいけなくて、ずっとわからないまま。 

松浦作品の世界では許されないけれど、それは自然なあり方なんだよ。


中途半端でふりきれていない作品ではあるけれど、テーマや「気付き」はさすがだと思うね。


これを書いたときの松浦理英子と同い年かあ。 感慨深いね。













あなたには、ずうっと罵られて、いるわね。
そうやって、あなたに許してもらっている気になっているの。
そんな心持で、相対してるのよ。ご存知かしら。