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萩尾望都『トーマの心臓』


を読んだ。


74年に連載された漫画なのだけれど、名作として名高い作品。

これはそうだ、ずっと色褪せることのない大傑作であろう。


たとえ、技術的手法として、美形登場人物が驚いたときに白目向いていていようとね。



舞台はギムナジウムで、少年たちそれぞれの「愛」を描く。


ギムナジウムはいわば箱庭で、そこだけで世界が完結しているという舞台装置である。

外界に出ることはできるのだけれど、

外出許可を得、学校指定のコートをはおり、常にその学校の生徒であるように振る舞わなければならない。


生徒たちは学校の敷地内の寮で生活しており、

学校、家、public、privateの明確な線引きができず、

憧れも侮蔑も、尊敬も軽蔑も、愛も友情も、人間がもちうる感情のすべてをその中で自給できる。


そして、基本的に彼らはインテリであり、また高潔なので、

優秀な人間や、光のただなかにいる人間を、神聖視し、信奉する。


「敬愛」の感情を育てる舞台として、ギムナジウムはまっこと良い作用をする。



この物語の根幹にあるテーマはずばり「愛」であると思うのだけれど、

「愛」の関係には、代替不可能性が不可欠である。


誰かの代わりではいけないし、誰かの代わりにはならないということ。

他の誰でもない、どの人格とも違う、この人でなければならないということ。


わたしは、世の中には、二通りの人間がいると思っている。

人に欲しがられる人間と、そうじゃない人間。

欲しがられる人間は、本人にその気があろうがなかろうが、何らかの卓越性でもって人を惹きつけ、人の心を占領してしまう。おだやかに、あるいは苛烈に、見つめられる。

そうじゃない人間は、じいっと見つめる。それだけ。歴然とした距離に打ちのめされる。それだけ。


物語の核になる人間は、みんな欲しがられる側の人間である。

ユーリもトーマもオスカーもエーリクも、それぞれの光でもって崇拝され、認められている。

つまり、端的に言って、彼らはそれぞれ魅力的である。

そうであるにもかかわらず、「僕でなければいけな」くて、「俺じゃあだめ」なのである。

その人間のどこがどんな風に好きなのか、具体的に説明できる必要はない。

ただ、自分のさみしさが、その人の各私性の中にあたたかいもの、幸せのかけらを見つけて、「特別」に想う。


その心のはたらき、「愛」の前では、私がどのような存在であるのか、また相手がどのような存在であるのかは、

もはや関係がないのかもしれない。逆説的だけれども。

愛は、未だ主もなく客もなく、主客未分の純粋経験なのだろう、西田幾多郎先生。教えてくださいな。


ユーリがどのような人間であろうと、

翼がひきちぎられていようと、悪魔であろうと、どんなに卑劣であろうとも、

そのいっさいをトーマは許していた。

ユーリがユーリであるというその一点のみで、すべてを許していた。

愛とは、なんと貴い。


貴くて、行き過ぎていて、やさしくて、とてもぜいたくである。



どんなに顔が似ていても、性格が似ていたとしても、

トーマはトーマであるし、エーリクはエーリクである。また、でしかない。

ほかの誰も「わたし」を生きることはできないし、「わたし」しか「わたし」を経験することができない。


エーリクによって扉が開かれたとしても、ユーリが好きなのは他でもないトーマである。

だから、間違えない。エーリクの愛に応えるかどうかはまた別の独立した問題なのである。


トーマの愛を直観したユーリは、やすらかな愛の方向へ生きることを決断する。



オスカーは知っていた。

物語の冒頭からずっと、

どんなに理解していても、どんなに愛していても、

ユーリが見ているのは、見つめているのは、トーマであると。

その上で、自分もまた、他の誰でもないユーリでなければいけないのだと想い、彼が安らかであれと見守る。

「気づいてほしかっただけ」と云うオスカーのまなざしは、やさしい。



どんなに卓越した人間であっても、その人にとっての「特別」には敵わないのである。

唯一性、代替不可能性、けっして置き換えがきかないということ。






わたしも、言えたらいい。

あなたがあなたでいるだけで、わたしはいっさいを許していると。