ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』人物事典93(85人目)

 

~ホフラコーワ夫人(後半)~

 3日目午後7時

 ホフラコーワ夫人:「わかっております、わかっておりますわ」

 ドミートリーを来るのを待ち構えていた。「奥さまにお助けいただかなければ、すべておじゃんになってしまいます」と言うドミートリーに、「わかっております、わかっておりますわ」とくり返して、「わたし、あなたの運命を見守って研究しておりますの」と言う。ドミートリーがしゃべろうとすると、そのたびに話をさえぎる。

 

 ホフラコーワ夫人:「種馬の飼育ってなんのことか、ご存じかしら」

 まずは、従姉妹のベルメソワの話を始めた。種馬の飼育をやってみるよう自分がすすめたら、順調そのものだったと言い、「種馬の飼育ってなんのことか、ご存じかしら」と問う。ドミートリーも、三千ルーブルぜひとも借りなければいけないので、強い態度に出られない。「たった二分いいですから、自由に話す時間をください」と言って、三千ルーブルのことを切り出すと、夫人は「それはあなた、ぜんぶあとでね、あとで」と負けじと手を振って話をさえぎり、「おっしゃることは何もかも、ぜんぶ、先に承知しております」「わたしが救って差し上げますとも」「あなたに、無限に、三千ルーブルよりも無限に、たくさんあげますとも!」と言って、「慈善家にありがちな無邪気な勝利感」にひたりながら、今度は金鉱の話を始める。

 

 ホフラコーワ夫人:「もううんざりですわ、ドミートリーさん、もううんざり!」

 「あなたの歩き方まで研究して決めました。この方は、たくさん金鉱を見つける方だってね」と言う。とまどうドミートリーに、「修道院で、今日あんなことがあったものですからね、わたし、ほんとうにがっくりきまして、完全にリアリストになることにしたんです」と言い出した。再び三千ルーブルの話を切り出そうとするドミートリーをさえぎって、「だいじょうぶ、その心配はありません」「その三千ルーブルはもう、あなたのポケットに入ったも同然なんですから、いや、三千ルーブルどころじゃありませんよ、三百万ルーブルですよ」と言う。不穏な予感にかられながら、時間がないと言うドミートリーに、「もううんざりですわ、ドミートリーさん、もううんざり!」と叫んで、断固として話をさえぎった。金鉱に行くか行かないかを「数学的に」お答えいただきたいと迫り、「行きます、奥様。しかし今は……」と話そうとすると、「ちょっと待って下さらない!」とさえぎって、椅子から飛び上がり、豪華な事務机の引き出しを開けて、何か探し物を始めた。ドミートリーが、いよいよ三千ルーブルだ!と息も止まる思いで考えていると、夫人は、十字架のペンダントを持ってきて、「さあ、これで出発できますわね!」と言い、悠然とまた腰を下ろした。

 

 ホフラコーワ夫人:「あれ!」

 どうしても三千ルーブル必要だと食い下がるドミートリーを断固とした口調でさえぎって、「すべて捨てておしまいなさい、ドミートリーさん!」「お捨てなさい、とりわけ女なんて。」と言って、女性問題の話を始める。女性の政治参加が自分の理想で、女性の使命についての匿名の手紙を作家のサルトゥイコフ・シチェドリンに送ったそうだ。だらだらと話を引き延ばす夫人に対して、ドミートリーは悲痛な思いを伝えようとするが、「だったら、お泣きなさい!」と言って、シベリアから帰ってきたら……などと言い出し、またしても話が進まない。しびれを切らして、「これで最後にします。今日、あなたから約束のお金を受けとれるんでしょうか?」と問うと、「お金ってなんのことです、ドミートリーさん?」「三千ですって? それって、ルーブルで? いいえ、とんでもない、わたし、三千ルーブルなんて持ち合わせていません」と答える。「ああ、この、畜生……」とうなって、げんこつで力いっぱい机をたたき、「あれ!」と仰天する夫人をよそに、ぺっとつばを吐いて、屋敷を出た。ホフラコーワ夫人に、見事に足止めされたドミートリーだった。【⇒第8編:ミーチャ3 金鉱】

 

 3日目午後11時

 ホフラコーワ夫人:「わたし、あの男にびた一文お金を貸していません」

 ドミートリーの訪問にひどく気分を害していた。こういう場合につきものの片頭痛から逃れられそうにないと覚悟していた。小間使いが「町の役人」の来訪を告げたとき、帰ってもらいなさいと命じた。しかし、役人が、「たいそうきちんとした身なりをした、若くてとてもていねいな方」であると知り、夫人は会うことに決めた。ペルホーチンが、いきなりドミートリーの話を始めるので、お得意の「猛然と相手の言葉をさえぎる」を発動したが、ドミートリーが人を殺したようだと聞くと、持ち前の好奇心を発揮して、「猛然たる調子で聞き返した」。ペルホーチンが毅然とした様子でこれまでのいきさつを話すと、夫人は異様なほど興奮し、「あの男、あの年とった実の父親を殺したんですわ」「わたし、あの男にびた一文お金を貸していません」と叫んだ。

 

 ホフラコーワ夫人:「ペルホーチンさん、あなたってほんとうに機転のきく方ですのね」

 そして、「どうぞお座りになって」「いや、走って行ったほうがいいわ」と大混乱しつつも、「でも、もし、あの男がすでに父親を殺したあとだったら」と問うペルホーチンに椅子をすすめた。これまでの事件の経過を、「叫んだり、両手で目をおおったり」しながら聞いていた夫人は、「じつを言いますとね、わたし、すべてがこうなるって、うすうす感じていたんです! わたしには生まれつきそうした能力がありまして、想像することがみんな、その通りになってしまうんですの」と、このタイプの貴婦人特有の霊感について口にした。ペルホーチンが警察署長のところへ行くと言うと、夫人は、「ペルホーチンさん、あなたってほんとうに機転のきく方ですのね」とほめる。「この勇み立っている夫人から解放されたがっているようだったが、夫人はなんとしても別れを告げる暇を与えず、立ち去らせてくれなかった」。夫人が連れて行ってほしいと言うのをおしとどめ、お金を渡さなかったことを一筆書いてほしいと頼むので、「もちろんですとも!」と有頂天になり、「でも、ねえ、わたし、この事件でのあなたの機転の早さや、手腕のみごとさにほんとうに驚いてますの」と、この青年にすっかり魅了された。

 

 ホフラコーワ夫人:「いまどきの若者は何もできないっていうけど、そんなの嘘だわ」

 夫人は、「なんて能力があって、なんてしっかりしてるんだろう、いまどきの若者で、あんな立ち居振る舞いができて、あんなふうにきちんとした身なりをしていて。いまどきの若者は何もできないっていうけど、そんなの嘘だわ、ほらこの人が見本よって、みんなに見せてやりたいくらい……」。そんなわけで、夫人は例の「恐ろしい事件」についてはすっかり忘れてしまった。ベッドに入ったとたん、「どんなに死がせまっていたか」を思い出して、「ああ、恐ろしい恐ろしい」とひとりごちたが、「まもなく、彼女は深く、甘い眠りに落ちた」。実はペルホーチンも、夫人に対してよい印象を持ったようで、この奇妙な出会いはペルホーチンの出世の糸口となった。【⇒第9編:予審1 官吏ペルホーチンの出世のはじまり】

 

 事件後

 ホフラコーワ夫人:「リーズの面倒をそっくりあなたにお任せしますわ」

 体調を崩して(急に片足が腫れあがった)から、三週間たった。病身なのにおめかししているのは、ペルホーチン青年が通い始めたからだ。リーズからとても大事な用件があると言われたアリョーシャが、四日ぶりにホフラコーワ邸をおとずれるが、「ほんの一分だけ」自分のところへ立ち寄ってほしいと呼び止めた。「まず母上の願いをかなえてやるのが得策」とにらんだアリョーシャが、夫人のところへ向かうと、「リーズの面倒をそっくりあなたにお任せしますわ」と言う。ここで、リーズがアリョーシャとの婚約を破棄したことが明らかになる。アリョーシャがグルーシェニカのところから来たと言うと、「あの女がみんなを破滅させたんですわ」と言い、「あの女、聖女になったんだそうですね、あとの祭りですけど」と皮肉を言った。

 

 ラキーチンとペルホーチン

 つづいて、噂が大好きなので、ゴシップ紙『風聞』を予約購読したら、自分がドミートリーの愛人だったと書かれていた話をする。「孤閨をかこつ未亡人」がドミートリーにのぼせあがり、犯行の二時間前に男に三千ルーブル提供し、金鉱にかけおちすることを持ちかけたが、ドミートリーは、四十過ぎの美人女性とシベリアまで駆け落ちするよりは、実の父を殺して三千ルーブル盗むことを選んだと言う内容だった。ホフラコーワ夫人は、この記事を書いたのは、ラキーチンだと言う。

 「あのおっちょこちょいの青年」が、どういう風の吹きまわしか自分を好きになった。ラキーチンが、何かをほのめかそうとして、帰りしなに強く手を握って以来、急に足が痛みだしたのだと言う。二週間前、ラキーチンが夫人のところへ来て、「わたしのあんよ、あんよ、しくしく痛むよ……」というような自作の詩を披露した。そこへ、ペルホーチンが入って来たので、ラキーチンは、夜叉みたいに渋い顔になった。夫人がその詩をペルホーチンに見せると、「だれがつくったか見当もつきませんでしたよ」としらばっくれて、「つまらん詩だなあ、どうせ、どこかのやくざな神学生が書いたものだろう」と皮肉を言った。

 ラキーチンは、「いや、書いたのはおれだよ。おれがふざけ半分に書いたもんだ」と、いまにもつかみかかりそうな剣幕で言うので、ペルホーチンは、ニンマリ笑って、「知りませんでした。知っていたなら、あんな口のききかたをせずに褒めたでしょうね……詩人っていうのは、えてしてひどく怒りっぽいですからね」と、ひどく嘲笑した。

 夫人は一度気を失ったが、いきなり立ち上がって、「こんなことをいまさら申し上げるのはつらいことですが、わたし、二度とあなたをこの家にお迎えする気になりません」と、ラキーチンを追い返した。「あのお芝居って、やっぱり自然の流れだったんですよ」。数日泣いたが、「食事を済ませたら、急にけろりと忘れちゃったんですよ」。そして、この新聞の話をけろりと忘れて、別の話題に飛びついた。「肝心なこと、ぜんぜんお話してないじゃないの。ああ、口が勝手にしゃべってる!」。

 

 グリゴーリー犯人説

 次は心神喪失について。夫人はグリゴーリーを犯人だと疑っており、ドミートリーに殴られて心神喪失を起こして、フョードルを殺したことを忘れてしまったのだと推理している。「でも大事なのは、いまの時代、心神喪失を起こしていない人がいるのか、ってことです。あなたもわたしも、みんな心神喪失を起こしてるでしょう」「たとえばだれかが腰をおろして、ロマンスを歌っている、ところが何か急に気に入らないことがあって、いきなりピストルを取りだし、だれかれかまわず撃ち殺してしまった、でも、その人をみんなが許すんですよ」。 

 

 ホフラコーワ夫人:「遅いじゃないですか! 遅いじゃないですか!」

 それっぽいことを言った後、「リーズが心神喪失なんです」と、ようやく本題に入った。そして、イワンが突然リーズのもとを訪れるようになったことをアリョーシャに告げる。「わたしの人生のすべての運命はあなたの手に握られています」と言った直後に、ペルホーチンがやって来たのでぱっと顔を輝かせ、「遅いじゃないですか! 遅いじゃないですか!」と、気持ちはそちらへ。アリョーシャは、この隙にリーズのところへ向かう。「帰りにかならず寄ってくださるのよ、かならずね。でないと、わたし死んじゃいますから!」と、アリョーシャの背中に向かって叫んだが、アリョーシャはすでに部屋を出ていた。【⇒第11編:イワン2:悪い足】

 

 公判当日

 病気のため、証人として出廷しなかった。【⇒第12編:誤審1:運命の日】

 イッポリートによる論告では、「この町に一時的に滞在し、わたしたちすべての尊敬を集めておられる方」と、前向きな評価がくだった。【⇒第12編:誤審7:過去の経緯】