ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』人物事典89(78人目)

 

~フョードル・カラマーゾフ(事件)~

 

 

 1日目午後5時半

 フョードル:「おまけにその話のじつにうまいこと、うまいこと!」

 アリョーシャが来たときに、「バラムのロバが急に口をききだしたんだよ。おまけにその話のじつにうまいこと、うまいこと!」と言って、上機嫌でコーヒーをすすめた。

 グリゴーリーが英雄的な殉教者の話をすると、スメルジャコフが薄笑いを浮かべる。フョードルが水を向けると、無口なスメルジャコフが、突然大声で話し出した(=バラムのロバが口をききだした)。スメルジャコフは、迫害者の前で、「キリスト教徒ではない」と口にすると、その瞬間に神の裁きにより破門されるため、キリスト教徒としての責任もなくなると言う。あの世に行った後、キリスト教を捨てたことについての責任は問われることなく、異教徒として生まれたタタール人と同じ状態になるだけだと言う。

 フョードルは、イワンには、「イワン! ちょっとこっちに耳をかせ。おまえに褒められたい一心でやってることなのだ。だから、褒めてやれ」と言い、アリョーシャには、「おまえにうってつけの話だ。うってつけの話だ!」と言って、話に耳を貸すようにうながす。そして、スメルジャコフには、「でたらめ言うな。そんなこと言ってると、おまえこそ地獄に突きおとされた羊肉みたいにじゅうじゅう焼かれちまうぞ」「いやはや、臭いイエズス会士だねえ」と茶々を入れる。さらに、スメルジャコフは、信仰を捨てたことに対する罰は、「ごくごくありきたりなものです」と言う。聖書には、どんなに小さな信仰でも、山を動かすことができると書かれているが、「地上全体でただ一人、いやせいぜい二人をのぞいて」、動かすことができない。つまり、二人の隠遁者以外は、すべて不信心者なのだ。寛大な神がそのすべてを罰するとは思えないので、一度神を疑った身も、後悔の涙を流せば許してくれるはずだと言った。

 

 フョードル:「ちょい待った! 山を動かせる人間が二人はいるってことだな」

 フョードルは興奮して、「ちょい待った!」と金切り声を上げた。そして、「山を動かせる人間が二人はいるってことだな」と言って、イワンに「しっかり覚えておけ、こうメモするんだ。ロシア人の面目ここにあり、とな!」。イワンも好意的な笑みを浮かべながら、「これは、信仰面でのロシア的な特徴といっていいですね」と答える。一方、アリョーシャは「全然ロシア的な信仰じゃありません」と言う。さらに、フョードルが、自分たちが信仰を持てないのは軽率で暇がないからだが、迫害者に棄教を迫られるようなときは、「まさしく自分が信仰を示すべきときだったんだよ! おい、どうなんだ?」とスメルジャコフに問う。スメルジャコフは、「とてつもない死の恐怖のおそろしい瞬間」に、すべてを試しつくしたすえに、山に向かって迫害者を押しつぶしてくれと叫んでも、山が連中を押しつぶしてくれなかったら、疑いを抱かずにいられないと答えた。「山が動いてくれなかったところをみると、ぼくの信仰なんて天国ではまともに信じてもらえてない」ので、「恐ろしさのあまり分別だってなくすかもしれませんよ」と言う。この世にもあの世にも、利益や褒美が見つからないなら、せめて自分の皮を守ることくらい許してもらえるだろう……。フョードルは話の終わりになって、にわかに顔を曇らせる。忠実なスメルジャコフが、ドミートリーから身を守るために自分を裏切ることを予見したのだろう。【⇒第3編:女好きな男ども7 論争】

 

 フョードル:「アリョーシャ、神はいるか」

 コニャックを飲みながら、「おれが何を好きか知ってるか? おれが好きなのは、ウィットなんだ」と言う(ゾシマ長老にはウィットがある)。そして、「イワン、答えてくれ。神さまはいるのか、いないのか? 待て、ちゃんと答えろよ、まじめに答えろよ!」と問う。イワンは、神の存在を真面目に問うこと自体が、まさしくスメルジャコフと同じくロシア的なものだと笑っている。「とにかく答えてくれ。神様はいるのかいないのか? ただし、まじめにだぞ! おれはいま真剣なんだから」「いません、神なんていませんよ」「アリョーシャ、神はいるか」「神さまはいます」「イワン、じゃあ不死ってあるのか。」「不死もありません」「全然?」「全然です」「ってことは、完全なゼロか、何かがあるんだ。ひょっとしてなにがしかはあるんじゃないかね? どっちにしろ無ってことはなかろう!」「完全なゼロです」「アリョーシャ、不死はあるのか?」「あります」「じゃあ、神も不死もか?」「神さまも不死もです。神さまの中に不死もあるのです」と答える。

 

 フョードル:「アリョーシャ、イワンなんか好きになるんじゃないぞ……」

 その後、いつものように嘘八百の作り話を始めたが、「…いや、これはやつの話じゃないかもしれん……」「イワン。これは嘘をついちまった。なぜ止めなかった、イワン……なぜ嘘だって言ってくれなかった?」とこぼすと、イワンは「自分からおやめになることがわかっていましたからね」と答えた。「おれに対する悪意からなんだ、おまえはおれをばかにしてるんだ」「チェルマシニャーに行ってくれっていってるのに……」と、酔ってからみ出した(チェルマシニャーはドストエフスキーの父が殺された場所)。イワンは「そんなにおっしゃるなら、明日にでも行きますよ」と答えるが、「行くもんか、お前はここでおれを見張ってるんだ」「アリョーシャ、イワンなんか好きになるんじゃないぞ……」と言う。アリョーシャはすがるように、「兄さんを悪く言うのはやめてください!」と言った。

 

 1日目18時

 すると今度は、フョードルは女の話を始めた。自分の人生に醜い女はいない、女の良さを見つけるのは才覚だ、最初に「あっ」と言わせることが大事だetc。そして、死んだ母親(ソフィア)が、「聖像」に唾をはこうとしたフョードルを、いまにも殺されるかと思うほどの目つきでにらみ、「両手をぴしゃっと打って、それから急に両手で顔をおおい、全身をがくがくさせ、床にくずれおちて、そのまま倒れこんだ」という話をすると、アリョーシャが話の中で母親がしたのとまったく同じように、「両手をぴしゃりと打ち合わせ、顔をおおい、なぎたおされるように椅子の上に崩れ落ちた」。その様子が、母親と異常なほど似ていたことが、フョードルを打ちのめした。イワンが、「ぼくの母親も、これの母親と同じだったわけでしょう」と軽蔑の色をにじませて、怒りを爆発させた。イワンの「ぎらりと光ったまなざし」に、フョードルはぎくりとした。そのとき、アリョーシャとイワンの母親が同じだということが、すっぽり抜け落ちていた。

 

 フョードル:「殺される! 殺される!」

「悪かった」と謝った直後、玄関からすさまじい物音とすさまじい叫び声が響いて、ドミートリーが飛び込んで来た。「殺される! 殺される! おれを、守ってくれ、守ってくれ!」。【⇒第3編:女好きな男ども8 コニャックを飲みながら】

 ドミートリーが広間へ飛び込んできて、「ははあ、女はそこか!」と言って寝室へ向かった。フョードルは、「やつを押さえろ、押さえるんだ!」と言って、ドミートリーのあとから寝室へ突進する。イワンとアリョーシャは懸命にフョードルをつかまえた。「どうして後を追ったりするんです! 殺されてもいいんですか!」と、イワンは父を怒鳴りつける。フョードルは、グルーシェニカが来ているというドミートリーの言葉に、正気を失ってしまった。再び広間にドミートリーが姿を現すと、「寝室の金を盗んだな!」とイワンを振り払って、ドミートリーに飛びつく。ドミートリーは、「老人のこめかみにかろうじて残る髪をいきなり引っ掴んで、どうっと床にたたきつけた。さらに倒れている老人の顔をすかさず二、三度、かかとで蹴りつけた」。イワンとアリョーシャは、ドミートリーを懸命に引き離す。「ばか、親父を殺す気か!」と叫ぶイワンに、「自業自得だ! 今回は見逃してやるが、また殺しに来てやる。」とわめきたてた。「ドミートリー! いますぐここから出てってください!」とアリョーシャが強い口調で言った。「あんたの血を流したからといって、おれは後悔していない!」と言い捨ててドミートリーが立ち去ると、フョードルはスメルジャコフを呼びながら気絶した。

 

 フョードル:「おまえはこのおれをかばってくれたな、死ぬまで忘れんよ」

 一時間ほどして、息を吹き返したフョードルは、つきそっているアリョーシャに、「イワンはどこだ?」と尋ねた。そして、「おれはイワンが恐いんだ。あれよりも、イワンのほうが恐い。恐くないのはおまえだけだ……」と言った。さらに、「さっきグルーシェニカはここにきてたのか」「ミーチャはあれと結婚する気だよ、結婚する気だ!」と、しきりに気にしていたが、アリョーシャが「来てません!」「あのひとは、兄さんとは一緒になりません」と答えると、嬉しげに体をふるわせた。そして、明日の朝、話しておきたいことがあるので、寄ってくれと言う。そして、「イワンにはひとことも言っちゃだめだぞ」と念をおした。最後に、「おまえはこのおれをかばってくれたな、死ぬまで忘れんよ」といった。【⇒第3編:女好きな男ども9 女好きの男ども】

 

 2日目

 フョードル:「それとも、これが見納めってわけか?」

 心配げに自分の鼻を鏡でのぞいている(朝から数えておそらく四十回にもなったろう)。「白いと病院臭くていかん」と言って、赤い包帯を巻いている。「イワンは外に出ているよ」とふいに言って、イワンが何のために、これまで自分のところにいたのかを説明する。グルーシェニカがフョードルのところへ来ると、ドミートリーはグルーシェニカと結婚できなくなる。すると、自分もカテリーナと結婚できなくなる。だから、グルーシェニカがフョードルのところへ来ないように見張っていなければならず、チェルマシニャーへは行かない。ドミートリーを牢獄にぶちこんでやろうとも思ったが、イワンに止められた。それに、「あの悪党をぶちこんでもみろ、やつをおれがぶちこんだと聞いたら、あの女、たちまちやつのところにすっとんでいくにちがいないんだ」。イワン、ドミートリー、カテリーナに対する暴言を吐いていると元気になって来た。帰り際にアリョーシャが肩に口づけするので、フョードルは驚き、「これからも顔を見せてくれるだろうが? それとも、これが見納めってわけか?」と言う。アリョーシャが「まさか、その、ただ、ちょっと、なんとなく」と答えると、フョードルも、「いや、こっちも別にどうってことない、ただ、妙にな……」と言った。【⇒第4編:錯乱2 父の家で】

 

 3日目

 帰って来たイワンを出迎えたが、ぶしつけな敵意を見せて、そのまま二階へ上がってしまった。深夜二時ごろまで、フョードルは、「五回のノック(グルーシェニカが来たという合図)」に胸をときめかせながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。翌朝、イワンにチェルマシニャーに行ってくれと頼むと、同意してくれたので、大変喜んだが、気持ちが外に出てしまうのを「この時ばかりは自制している」様子だった。そこから二時間ほど、ご満悦でコニャックを飲んでいたが、スメルジャコフが穴倉へ落ちたという知らせを受ける。ただちにゲルツェンシトゥーベを呼んだが、やはり「なんともいえませんな」だった。そして、マルファの用意した夕食はひどいものだった。グリゴーリーの腰が立たなくなったので、完全にひとりで母屋に閉じこもった。「今日ぜひともうかがいます」とグルーシェニカが約束したと、スメルジャコフから聞かされていた。「今夜こそ、彼女はまちがいなくやってくる!……」と信じていた。【⇒第5編:プロとコントラ7 賢い人とはちょっと話すだけでも面白い】

 グルーシェニカが来ないので、一人で部屋の中をうろうろしていたら、窓を五回ノックする音が聞こえた。窓から顔を出したフョードルは、「グルーシェニカ、君かい? 来てくれたのかい?」とささやくように呼びかけた。その後、死体で見つかった。【⇒第8編:ミーチャ4 闇の中で】

 

 公判当日

 イッポリートによる論告。「この老人の法律は、あとは野となれ山となれ」のひとことに尽きる。公民という概念とは正反対で、「この世のすべてが燃えようと、おれさえよければかまわない」。精神的な面はすべて放棄される一方、生への渇望は異常なものがあり、性的な快楽以外、人生にひとつ見ようとしなくなった。【⇒第12編:誤審6:検事による論告。性格論】