ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』人物事(34人目)人目)

 

~グルーシェニカ(3日目18時半)~

 

 

 3日目18時半

 ラキーチンがアリョーシャを連れてきたとき、嘘に気づいたドミートリーが乗り込んで来るかもしれないと怯えながら、フィアンセのポーランド人将校(ムシャロヴィチ)からの使いを待っていた(ドミートリーに対して、今夜ずっとサムソーノフのところで金勘定をしていると嘘をついている)。ドミートリーがサムソーノフの家まで送ると言って聞かなかったので10分だけサムソーノフの家にとどまり、すぐにこっそり帰って来た。ドミートリーには夜11時に迎えに来てほしいと言ってある(それまでにフィアンセが迎えに来る)。

 「そうめかしこんでどこへ行くつもりなんだい?」と聞くラキーチンに、「知らせが来たら、わたし、すぐに飛び出していくわ。そしたら、あなたたち、わたしはこれで見納めよ」と言った。

 

 グルーシェニカ:「わたしを膝に乗せてくれる、こんなふうに?」

 グルーシェニカは、アリョーシャの隣に腰をおろし、「いまはタイミングが悪すぎるけど、でも、わたし、ものすごくうれしいの!」と言い、「魂胆があったくせに」と言うラキーチンには、たしかに前には魂胆があったが、いまはちがうと答える。「わたしを膝に乗せてくれる、こんなふうに?」とアリョーシャの膝に飛び乗り、「だめならだめって言ってね、すぐに降りるから」と甘えた。アリョーシャは、無言のままじっとしていた。シャンパンをおごれとうるさいラキーチンに、約束どおりシャンパンをごちそうする。グルーシェニカは、「あなたを怒らせたことだけが、ずっと気になって……」とアリョーシャに言う。ラキーチンが、「彼女はな、ほんとうに君のことを怖がってたんだぜ、ひよっ子みたいな君をさ」と茶々を入れると、「あんたには、良心なんてものが、まるでないからね」と切って捨てて、アリョーシャを「心で愛している」と言った。「あちらの将校はどうなる?」「それとこれとはちがうの」「なるほど、女の理屈だとそうなるわけか!」

 「アリョーシャは別の愛し方で愛してるの」。グルーシェニカは、アリョーシャを自分の良心の鏡のように見ており、「あれだけの人なんだから、いまごろきっと、いまのわたしみたいな汚らわしい女、軽蔑しているにちがいない」と、恐れていたのだと告白する。自分に会うたびに顔をすむけるアリョーシャを見て、自分を軽蔑しているという思い込みが強くなっていき、どうしてあんな子どもが恐いんだろう、「すっかり」憎らしくなってきて、呑み込んでやって、すっかりだめにしてやって、笑ってやろうと堅く決めたのだった。 

 

 グルーシェニカ:「ああ、そんなこととは知らず!」

 ラキーチンが「シャンパンが来たぞ!」と舌なめずりする。アリョーシャが一口だけ飲んで「これ以上はやめときます」と言うので、「それならわたしもやめとくわ」とグルーシェニカも後に続いた。ラキーチンは、「やけにしおらしいねえ」とからかい、ゾシマ長老が亡くなったことを話す。グルーシェニカは、「うそ! ゾシマ長老が亡くなったですって?」と声をあげ、「ああ、そんなこととは知らず!」とうやうやしく十字を切って、「ああ、わたしったら、もう、この人の膝に乗ったりして!」と、おびえきった表情で膝から飛び降り、ソファーに座り直した。

 

 アリョーシャ:「あなたがいま、ぼくのこころを甦らせてくれたんです」

 アリョーシャは驚いた様子でしばらく彼女を見つめていたが、みるみる顔に光が射してきた感じになり、「ぼくがここで見つけたのは、誠実な姉さんだった。大事な人だった……愛する心だった……この人はさっきぼくに優しくしてくれた……アグラフェーナさん、あなたのことを言ってるんです。あなたがいま、ぼくのこころを甦らせてくれたんです」と言う。ラキーチンは、「彼女が君の救い主ってことになるぞ!」「お二人さん、急にしおらしくなってさ、いまにも泣き出しそうだぜ!」とからかう。

 

 一本の葱

 「ええ、泣き出してやるわ!」「この人はね、わたしのこと、姉さんって呼んでくれたの、わたし、死ぬまで忘れないわ!」。そして、「わたしは、ネギを一本あげたことがあるのよ」と、蜘蛛の糸のおとぎ話を始める。「わたしが今まで生きてきたなかで人に与えることができたのは、せいぜいその葱ぐらいのものだし、わたしの善行だってその程度のものよ」と言う。

 そして、なにもかも白状すると言って、アリョーシャを誘惑するため、ラキーチンに二十五ルーブルあげる約束をしていたことを告白し、ラキーチンに二十五ルーブル紙幣を投げつけた。ラキーチンは、「そんなばかな! そんなばかな!」と当惑したが、内心の恥ずかしさを隠そうとして、「あたり前さ、断るもんか」と強がってみせた。グルーシェニカは、「あんたはわたしたちのことが好きじゃないんだ。だから黙っておいで」とラキーチンに言う。ラキーチンは、人は何かがあって愛するものだが、「君ら二人がいったい何をしてくれたっていうんだい?」と言うので、グルーシェニカは、「何かがなくたって愛するのよ、アリョーシャの愛し方ってそういうものでしょう」と返した。

 

 グルーシェニカ:「わたしの心ってなんて卑屈なのかしら!この卑屈な心のために乾杯!」

 グルーシェニカは、ポーランド将校の話を始める。五年前に捨てられたとき、「体も細くて、おばかさんで、こうしてすわって泣いてばかりいた」。そして、「会ったが最後、必ず復讐してやる!」とずっとそのことばかりを考えていた。「世界をまるごと呑み込んでしまおうみたいな猛々しい気分」だった。それからお金を貯めだした。情け容赦もない女になって、頭も少しだけよくなったと思うかもしれないが、小娘だった五年前と同じように、横になると歯ぎしりしながら、「かならず復讐してやる、かならずしてやる」と一晩中泣きとおすことがあった。

 一か月前に手紙が届いた。「でも、ふと思ったわ。あの男が来て、ヒューって口笛を吹いてわたしを呼んだら、それこそ怒鳴られた犬ころみたいに、申し訳なさそうな顔をしてすり寄っていくんだとね」。ドミートリーと気晴らしに遊んだのは、あの人のところへ行かないためだった。「わたし、ひょっとするとあの人のところへナイフを忍ばせていくかもしれない、まだ、それを決めかねてるの……」。急にこらえきれなくなり、グルーシェニカはソファーのクッションに子をうけて、まるで幼い子どものように泣き始めた。グルーシェニカが、「わたし、あの人のこと、愛している? それとも愛してない? あなたに決めてほしいの」と言うと、アリョーシャは「だって、もうゆるしているでしょう」とほほえんだ。

 「わたしの心ってなんて卑屈なのかしら! この卑屈な心のために乾杯!」と、グルーシェニカは、シャンパンを一気に飲み干すと、高々とグラスを差し上げ、思い切り床にたたきつけた。彼女の笑みに、何かしら残酷な影がかすめ、「でももしかすると、まだ許していないのかもしれない」「気持ちが先走って許そうとしているだけかもしれない。」「わたしが愛しているのは、ひょっとするとこの屈辱だけで、あの人のことじゃ、ぜんぜんないかもしれない!」。

 

 グルーシェニカ:「わたしって、はげしくて凶暴な女なの」

 そして、「このおめかしがなんのためか、あんたにはわからないの、ラキートカ(=ラキーチン)! ことによったら、あの人のところでこういうかもしれない。『こんなわたしを見たことあった? ないでしょう?』」ってね。「あの人をさんざん誘惑して、『でも、おあいにくさま、ごちそうはそのままおあずけ、においをかくだけでお口には入らないの』って、そういう目的だってあるかもしれないのよ」と、悪意のこもる薄笑いを浮かべた。「わたしって、はげしくて凶暴な女なの」「あんな人、追い返してやるわ、あかんべえしてみせる、わたしのこの顔、拝ませてなんかやるもんですか!」とヒステリックに叫び、またしてもクッションに顔をうずめて泣き出した。ラキーチンがそろそろ帰る時間だと言うと、グルーシェニカは跳ね起きて、「まさか、まだ帰らないわよね、アリョーシャ!」と悲しみにうたれて、叫んだ。

 「いまになって、なんてことをわたしにするの」「いままた同じ夜が来るんだわ、また一人取り残されるんだわ!」。ラキーチンが、「いったい、やつが君に何をしたっていうんだい?」と苛立たしい口ぶりで言うと、「この人がわたしに何を言ってくれたかなんて、わたし、知らないわよ、知るもんですか、何も知らない。でも、心がそう感じているの。この人、わたしの心の表と裏とをひっくり返してしまったの……わたしを憐れんでくれたのは、この人だけなの、そういうことよ!」。アリョーシャが、「ぼくが何をしてあげられたっていうのです?」「ぼくはあなたに一本の葱をあげました。ほんとうに小さな葱をね。それだけです、それだけのことです!……」と言って、優しくグルーシェニカの両手をとって、ほほえんだ。

 

 グルーシェニカ:「さあ、ワンちゃん、しっぽふってお行き!」

 そのとき、玄関で騒々しい物音が響いた。フェーニャが「奥さま、奥さま、お使いの方が参りました!」と、息を切らしながら部屋に駆け込んできて、陽気な声で叫んだ。グルーシェニカは、フェーニャの手から手紙をもぎ取り、「呼んでるわ!」と病的な笑みにひき歪んだ顔を真っ青にさせて、叫んだ。「ほら、口笛が聞こえてる! さあ、ワンちゃん、しっぽふってお行き!」それでも決心がつかず、立ちすくんでいた。やがて、急に顔を真っ赤に染めて、「行くわ!」と叫んで、寝室に駆け込んだ。そして、「アリョーシャ、兄さんのミーチャによろしくね」と言って、「グルーシェニカは、高潔なあなたじゃなく、卑怯者の手に落ちました!」と伝えてくれと頼んだ。そして、「グルーシェニカはあなたを一時間だけ愛したことがある、たった一時間だけど、愛したことがあったって‥‥…だから、この一時間のことをこれから一生忘れないでほしい」と付け加えた。【⇒第2部 第7編:アリョーシャ3 一本の葱】