TODAY'S
 
2021年度 東大寺学園

 

大問一

 

(一)漢字の書き取り 

※「算段」「遊興」「眼福」など、クセが強い。正倉院展が登場するので、奈良愛を感じる。

(二)三字熟語の意味 

※こちらはふつう。若草山が登場するので、奈良愛を感じる。

 

  

 

大問二:角田光代『いくつもの世界がある』・清水浩史『旅に出る二つの効用』

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【文章1】角田光代『いくつもの世界がある』 

 旅についての等身大の文章。一人旅をしたバックパッカーなら、みんな共感できる話です。この人の旅エッセイをたくさん読んできましたが、いつも文章としてカッチリ仕上がっているので、安心です。しかし、それだからこそ、設問にできるちょうどいい箇所が少ないとも言えます。

 

【文章2】清水浩史『旅に出る二つの効用』

 旅の直前に、本を読んで想像をふくらませるという話は、とてもよくわかります。『地球の歩き方』は、調べるためのものではなく、旅を疑似体験するものでした。

 筆者は、旅の最中にも読むと言っていますが、これは私にあてはまりませんでした。ヒマだろうと思って、旅先に持っていった本は、たいてい、まったく読まないまま、持ち帰ることが多かったです。帰りの空港あたりで、申し訳程度に読む感じでした。『地球の歩き方』も、旅先では、読むものではなく、緊急事態が起きたときに、にらめっこするものに変わります。そして、「こんな道は載ってない!」「バスがない!」というように、2回に1回くらい文句を言います。それがまたいいのです。

 旅を終えてからも、無性に本を読みたくなったりしませんでした。どこかしら這う這うの体で帰って来るので、もう十分ですという感じになることが多かったです。それが旅の充実でもあると考えていたりしました。

 そんなふうに自分を引き当てつつ読むことで、この人は、わたしの知っているのとは「別の旅の形」を知っている人だ、何者だろうと、気になって来ます。最終的に、共感できる角田さんの本ではなく、得体のしれぬ清水さんの本を買ったのは、なかなか不思議な心の動きです。読書ってそんなものなんです。

 

問1 語句。なんとか選べる。

問2 選べる。

※「お金は具体例だもん、だからセーフ!」って言いたいんだろう。

問3 選べる。

問4 東大寺の悪いところが出かかっている。でも、今回は選べる。

 この線部は、受動的な行為ではなく、主体的な行為であるということが言いたいのだが、正解選択肢は、そこまで明示的ではない。一方、不正解選択肢も、なかなかあいまいだ。普通なら、「一見正解のように見える選択肢」の中に「不正解部分」を埋め込むことで、不正解選択肢は作られる。しかし、この問題では、不正解選択肢の中に、「一見不正解のように見えるが、言葉の解釈次第では許容してもいい部分」があり、そこは保留したままで、「別の理由」を根拠に不正解だと判断することが必要とされる。たとえば、アの選択肢の「ひとりの私」という部分は、「ひとり旅の私」というふうに解釈することも、「一個人としての私」というふうに解釈することもできる。筆者は、「ひとりの私」という言葉を、ひとり旅の文脈の中で使っている。「ひとりの私」と言ったときに念頭にあるのは、間違いなく、ひとりで旅をしている自分だ。しかし、そのあとで筆者は、「ひとり旅」でなくても構わないというように、話を拡張し、線部はそのあとに引かれている。このことを根拠にして、「家族や友人との旅でもいいと書いてあるから、ひとりに限定するのは×だ」と決めつけることもできない。筆者は、何人で旅をするにせよ、「自分で」向き合わなければいけないと言っている。「自分で」=「ひとりで」だ。

 つまり、「ひとりの私」という表現を、引用部の意味で限定的に取るか、一般的な意味で広く取るかによって、二通りで解釈できてしまう。選択肢には、文中の言葉が引用されるが、「この語は本文34行目からの引用である」というような「注釈」はない。よほど特徴的なワードならともかく、「ひとりの私」程度の言葉は、選択肢の作成者の口からも普通に飛び出して来る程度の言い換えだろう。そんな感じで、ここは決め手にはならない。どんな意図があったにせよ、いたずらに受験生を悩ませるものになる。

問5 大阪星光の記述は、模範解答を作ったうえで、だいたいこれくらいの字数で書けるな……ということで、制限字数が設けられる。だから、百十字なんていう微妙なものになることがある。一方、東大寺は百字というフォーマットが先にある。料理にたとえるなら、「この食材でボクが料理を作ってみたら、だいたい3人前くらいになったから、君も3人前くらい作ってくれる?」というのが大阪星光だ。東大寺は、「至急3人前!」「先生、材料が足りません!」「知らん。うまく見繕え! それが君の仕事じゃないか!」という感じ。プロの文筆家は、こんな感じだろう。「800字のエッセイを至急!」「編集長、300字しか書くことがありません!」「知らん、うまく見繕え! それが君の仕事じゃないか!」。これはどっちがいいということもない。受験生にできることは、2段落をベタ写しすることだけだ。2段落だなと思えれば、差はつかない。でもときどき、全然違うところを書く子がいる。そういう子が×になるだけ。

問6 東大寺の悪いところがギリギリまで出かかっている。でも、ダメとまでは言い切れない。

 「無限」「どこへでも」が、極端表現だから×と言いたいのかな?  線部が「物理的に行けないから、行けないのではない」という抽象的な内容なので、いきなり理由を問うのではなく、「どういうことですか」と内容を問う方が良かった。この線部は、「(硫黄島などは)交通手段がなくて行けないのではない(=人が住まなくなったから、交通手段もなくなった)と本を読むことでわかるように、交通手段の有無以前に、わたしたちがその場所へ関心を持たないから、行けないのだ」と言っている。

 正解選択肢は、「本を読む経験が『想像半径』を延ばすことにつながり、人は自分の世界を広げることができるから」となっているが、たしかに消去法では正しいとわかるものの、なかなか難しい。はたしてこの問題の意図がすぐに理解できるものだろうか。

 「筆者がこのように述べるのはなぜですか」という問いは、大学受験でも見られる形式です。京大なら、「なぜですか」という問いが、「内容」の面で、線部以外のところから理由を補うことを求めるのに対して、「述べるのはなぜですか」という問いは、「表現」の面で、線部の比喩表現などをわかりやすくせよという問いです。そんなこと、小学生はだれも知らないですし、その解釈は、絶対的なものではありません。

問7 討論形式の問題。A~E君の見事なチームプレーにより、しっかり答えられる問題になっています。ありがとう!

 

  

 

大問三 :佐野久子『機織る音が聞こえる』 

 

 幕末が舞台の小説です。「ちっと見ねえ間にべっぴんさんになったのう」「遅く生まれた子はとくべつにかわいいという」「西脇屋のだんさんが、なつを丈太郎さんの嫁にしてはどうかといいなすった」「行かないでくれとか、死なないでくれとか、許嫁でもない分際で口にできることではなかった」「そしたらおっとつぁんに頼んでおらをお嫁にしてもらおう」――言葉がチクチクとのどに刺さります。昔の日本は、こういう社会だったんだということを、遅れているとか野蛮だとか言わずに、それはそれとして受け取ることも、歴史や文化と向き合う上で必要なことです。そういう一歩進んだメッセージなのでしょうか。たしかに、古い文学作品を出題する場合、差別的な表現も、作品の時代性を鑑みて、そのままにしたと、ことわりがきをする学校もあります。

 

――伏せたまつげが黒々と長い。間近で見ると、高い鼻梁の端整な顔立ちは、若々しくても粗野ではなかった。

 

――口の端についたアンコをぺろりと舌の先でなめとった丈太郎は、無邪気としかいいようのない顔で笑った。

  へえ、丈太郎さんってこんな顔して笑うんだ。

 

ということになると、話は変わって来ます。これは、少女漫画的な恋の物語です。少年漫画では、眉毛の大きさならともかく、まつげの長さは問題になりません。

 

――丈太郎のかじったまんじゅうが、半分だけなつの手のひらに残された。白い皮のところにうっすらと歯型がついている。灯籠の陰に身をひそめ、なつは半分になったまんじゅうをそっと口にほおばる。やわらかくて甘いまんじゅうだった。だれにもいえない秘密を抱えたような気がして胸がどきどきした。

 

ということになると、話は変わって来ます。エッチでもない、エロでもない。ぞくっとするなまめかしさです。ジャパニーズ・ホラーの一場面としても、使えそうです。ためしに、男女の立場を入れ替えてみると、どうでしょうか。男はダメで、女ならOK?? 

 

――丈太郎はとうとう小千谷にもどってくることはなかった。激戦の地を逃れ、無事に生きのびたらしいと切れ切れに伝えるうわさもあったが、それも単なるうわさに過ぎず、たしかなことは今もってわからなかった。

 

ということになると、これは人情噺なのだろうか。あるいは、新しい戦争文学なのか。

 

 驚いたのは、この作品が2019年の新しい作品であり、児童文学だったということです。これは新作日本昔話なのかもしれない。珍しい作品を取り上げて、「へー、こんな作品が眠ってたんだ!」と教えてくれる学校も多い。ただ、この作品に関しては、とまどいの方が強かったです。古い価値観を投影した作品をあえて取り上げる場合、昔に書かれたものの方が説得力は増します。もちろん作者が楽しんで書く分には自由ですが、出題者が「これにしよう!」と決めたその瞬間に立ち会って、「なぜ?」と問いたい気がしました

 

問1 語句。消去法で選べる。

問2 えーんなぜ、まんじゅうの件が、こんなにややこしくなってしまうのだろう。ここはさらっと読めばいいところだと思う。出題者は食いしんぼうに違いない。アは「惣べえさん」が関係ないので違う。イは「まんじゅうを一つ残すこと」と「冷静」が結びつかないので違う。ウは明らかに違う。エは前半が違う。ということで、どれも違う。もう一度深く読み直してみると、アはやっぱり全然違うし、イはこの部分をこう深読みして出題者が解釈したのなら……と忖度できるが、さすがにそれはないと思う。となると、エになる。この小さな女の子は、主人公を「敵視」しているらしい。ちょっと言葉がきつすぎるが、そう言えないこともない。ただ、アの「幼さ」なら〇、イの愛情いっぱいのわがままでも〇、エの敵視は△という感じだ。また、まんじゅう一個を残したことが、「他者の発言を受け止めて行動する」ということであるなら、「まんじゅうはまだたんとある」という発言が無視されているのは、いいのだろうか。

 まんじゅうに手を伸ばすと、小さな子が「それ私の!」と言うので、反射的に手をひっこめる。すると、遠慮しなくていいと惣べえさんが言う。「じゃ、遠慮なく」とはならないのが人情だ。かといって、せっかくすすめてもらったのに断るのも悪い。なので、「じゃあ、一つだけ」となるのが、普通の心の動きだと思う。それだけのことだ。「〇と×」よりも「△と△」を選べということではなく、「〇と〇」の選択肢を作ってほしい。

問3 丈太郎のマイナスから書かないと、六十字にはならない。でも、だいたい書ける。心情語も、直後を読めばわかるので。

問4 ショボーン丈太郎は実子ではない。惣べえさんは「遠縁の子」だと言い通してきた。しかし、実は惣べえさんの「妹の子」だった。それを知って、丈太郎は荒れた。実子じゃないと知って荒れるのはわかる。しかし、遠縁じゃなくて妹の子だったら、なぜ荒れる? この理由がわかる小学生はいるのだろうか。プラスっぽいのをとりあえず選んどけばいいのだが、「たち」「最後まで」など、またしてもあいまい。別の問題で、極端な選択肢や単複を問題にしたのなら、同じ基準を適応すべき。

問5 ショボーンアは前半が違う。イは「判断しかねている」のではなく、実際は「考えている」だけなので△。こういうときは、アの後半とイを結んでちゃんとした正解選択肢を作る。 ウは後半が違う。エは違う。

問6 言葉が古いが、大人ならできる。問題としては成立している。

問7 ショボーン正解選択肢に「やっぱり」のニュアンスがない。イは自分のことより、ウはおばあ、エは後半が違う。

問8 ちょうど八十字で書けるような、よい記述。「死んだのに、だれにも悲しまれない」点に触れる。