ビクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』読書メモ57

 

ビクトル・ユーゴー Victor Hugo 豊島与志雄訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第五部 ジャン・ヴァルジャン (aozora.gr.jp)

 

五 背後に昼を有する夜

 ジャン・ヴァルジャンのもとに、コゼットとマリウスが現れた。そして、ジャン・ヴァルジャンの最期。

 

――「コゼット! 彼女! あなた、奥さん! お前だったか! ああ!」

 そしてコゼットの腕に抱きしめられて、彼は叫んだ。

「お前だったか! きてくれたか! では私を許してくれるんだね。」

 

――人間というものは実に愚かなものです。私はもう彼女に会えないと思っていました。考えてもごらんなさい、ポンメルシーさん、ちょうどあなたがはいってこられる時、私はこう自分で言っていました。万事終わった、そこに彼女の小さな長衣がある、私はみじめな男だ、もうコゼットにも会えないのだ、と私はそんなことを、あなたが階段を上ってこられる時言っていました。実に私はばかではありませんか。それほど人間はばかなものです。しかしそれは神を頭に置いていないからです。神はこう言われます。お前は人から見捨てられるだろうと思うのか、ばかな、いや決して、そんなことになるものではないと。ところで、天使をひとり必要とするあわれな老人がいるとします。すると天使がやってきます。コゼットにまた会います。かわいいコゼットにまた会います。ああ、私は実に不幸でした。

 

――私は実際、ごく時々でもコゼットに会いたかったのです。人の心は噛みしめるべき骨を一つほしがるものです。けれどもまた、自分はよけいな者だと私は感じていました。あの人たちにはお前はいらない、お前は自分の片すみに引っ込んでいるがよい、人はいつでも同じようにしてることはできないものだ、そう私は自分で自分に言いきかせました。ああしかし、ありがたいことには、私はまた彼女に会った! ねえコゼット、お前の夫は実にりっぱだ。ああお前はちょうど、刺繍したきれいな襟をつけているね。私はその模様が好きだ。夫から選んでもらったのだろうね。それからお前にはカシミヤがよく似合うから是非買ってごらん。ああポンメルシーさん、私に彼女をお前と呼ばして下さい。わずかの間ですから。

 

――「私は真実を申したのです。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。

「いや、」とマリユスは言った、「真実はすべてでなければいけません。あなたはすべてを申されなかった。あなたはマドレーヌ氏であったのに、なぜそれを言われませんでした。あなたはジャヴェルを救ったのに、なぜそれを言われませんでした。私はあなたに命の恩になってるのに、なぜそれを言われませんでした。」

「なぜといって、私もあなたと同じように考えたからです。あなたの考えはもっともだと思いました。私は去らなければいけなかったのです。もしあの下水道のことを知られたら、私をそばに引き止められたに違いありません。それで私は黙っていなければなりませんでした。もしそれを私が話したら、まったく困ることになったでしょう。」

「何が困るのです、だれが困るのです!」とマリユスは言った。

 

――「私? いや、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「私は病気ではない。ただ……。」

 彼は言いやめた。

「ただ、何ですの?」

「私はもうじきに死ぬ。」

 コゼットとマリユスとは震え上がった。

「死ぬ!」とマリユスは叫んだ。

「ええ、しかしそれは何でもありません。」とジャン・ヴァルジャンは言った。

 彼は息をつき、ほほえみ、そしてまた言った。

「コゼット、お前は私に話をしていたね。続けておくれ。もっと話しておくれ。お前のかわいいこまどりが死んだと、それから、さあお前の声を私に聞かしておくれ!」

 マリユスは石のようになって、老人をながめていた。

 コゼットは張り裂けるような声を上げた。

「お父様、私のお父様! あなたは生きておいでになります。ずっと生きられます、私が生かしてあげます、ねえお父様!」

 

――扉の音がした。はいってきたのは医者だった。

「お目にかかって、またすぐお別れです、先生。」とジャン・ヴァルジャンは言った、「これは私の子供たちです。」

 

――ジャン・ヴァルジャンはなおほとんどコゼットをながめることをやめないで、心朗らかな様子をしてマリユスと医者とをじろりと見た。そして彼の口から聞き分け難い次の言葉がもれた。

「死ぬのは何でもないことだ。生きられないのは恐ろしいことだ。」

 

――大事な人がまさに死なんとする時には、人はその人にしがみついて引き止めようとする目つきで、それを見つめるものである。ふたりとも、心痛の余り黙然として、死に対して何と言うべきかを知らず、絶望し身を震わしながら、コゼットの方はマリユスに手を取られ、ふたりで彼の前にじっと立っていた。

 

――私は、暖炉の上にある二つの燭台を、コゼットにあげる。銀であるが、私にとっては、金でできてると言ってもいいし、金剛石でできてるといってもいい品である。立てられた蝋燭を聖なる大蝋燭に変える力のある燭台だ。私にあれを下すった人が、果たして私のことを天から満足の目で見て下さるかどうかは、私にもわからない。ただ私は自分でできるだけのことはした。お前たちはふたりとも、私が貧しい者であるということを忘れないで、どこかの片すみに私を葬って、ただその場所を示すだけの石を上に立てて下さい。それが私の遺言である。石には名前を刻んではいけない。もしコゼットが時々きてくれるなら、私は大変喜ぶだろう。あなたもきて下さい、ポンメルシーさん。私は今白状しなければなりませんが、私はいつもあなたを愛したというわけではなかった。それは許して下さい。けれど今は、彼女とあなたとは、私にとってただひとりの者です。私はあなたに深く感謝しています。

 

――コゼット、お前はモンフェルメイュを覚えていますか。お前は森の中にいて、大変恐がっていた。私が水桶の柄を持ってやった時のことを、まだ覚えていますか。私がお前の小さな手に触ったのは、それが始めてだった。ほんとに冷たい手だった。ああ、その頃、その手はまっかだったが、今では大変白くなっている。それから大きな人形、あれも覚えていますか。お前はあれにカトリーヌという名前をつけていた。あれを修道院に持っていかなかったことを、お前は残念がっていたものだ。お前は幾度私を笑わしたことだろう。

 

――コゼット、今ちょうどお前の母親の名前を言ってきかせる時がきた。お前の母親は、ファンティーヌという名前である。その名前をよく覚えておきなさい、ファンティーヌだ。

 

――彼はあおむけに倒れた。二つの燭台から来る光が彼を照らしていた。その白い顔は天の方をながめ、その両手はコゼットとマリユスとのくちづけのままになっていた。彼は死んでいた。

 夜は星もなく、深い暗さだった。必ずやその影の中には、ある広大なる天使が、魂を待ちながら翼をひろげて立っていたであろう。

 

六 草は隠し雨は消し去る

 

――その石には何らの加工も施してない。ただ墓石に用うるということだけを考えて切られたものであり、ただ人をひとりおおうだけの長さと幅とにしようということだけを注意されたものである。

 何らの名前も見られない。

 ただ、既にもう幾年か前に、だれかが四行の句を鉛筆で書きつけていたが、それも雨やほこりに打たれてしだいに読めなくなり、今日ではおそらく消えてしまったであろう。その句は次のとおりであった。

 

彼は眠る。数奇なる運命にも生きし彼、

己おのが天使を失いし時に死したり。

さあそれもみな自然の数ぞ、

昼去りて夜の来るがごとくに。