ビクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』読書メモ52

 

ビクトル・ユーゴー Victor Hugo 豊島与志雄訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第五部 ジャン・ヴァルジャン (aozora.gr.jp)

 

第六編 不眠の夜

 

一 一八三三年二月十六日

 マリウスとコゼットの結婚の日。結婚式の数日前、ジャン・ヴァルジャンは右手の親指を怪我して包帯をした。これにより、署名することができなくなったが、その手をだれにも調べさせようとしなかった。結婚式の日、謝肉祭の仮装行列と重なっており、大通りは見物の馬車でいっぱいだった。その中にテナルディエとアゼルマがいた。

 

――仮装馬車はちょうど新婦の馬車と大通りをはさんで向かい合った。

「おや!」と仮装のひとりが言った、「婚礼だ。」

「嘘の婚礼だ。」と他のひとりが言った。「本物は俺たちの方だ。」

――同じ馬車に乗っていた他の仮装のふたり、すなわちお爺さんのふうをしてばかに大きな黒髭をつけてる鼻の大きなスペイン人と、黒ビロードの仮面をつけてるごく若いやせたはすっぱ娘とが、やはり婚礼の馬車に目を止めて、仲間の者らと道行人らとが互いに野次りかわしてる間に、低い声で話をした。

※映画ではアゼルマではなくテナルディエ夫人

 

――「俺は仮面をつけてでなけりゃ外にはあまり出られねえ。こうしてりゃ、顔が隠れてるからだれにもわからねえ。だが明日になったらもう仮面がなくなる。明日は灰の水曜日だ。うっかりすりゃ捕まっちまう。また穴の中に戻らなきゃあならねえ。ところがお前は自由な身体だ。」

「あまり自由でもないよ。」

「でも俺よりは自由だ。」

「だからどうなのよ?」

「あの婚礼がどこへ行くか調べてもらいたいんだ。」

「どこへ行くか?」

「そうだ。」

「それはわかってるよ。」

 

二 なお腕をつれるジャン・ヴァルジャン

 結婚式。フォーシュルヴァン氏は、傷が痛むと言って、中座して家に帰ってしまった。ジルノルマン氏は、上機嫌で婚礼のスピーチ。

 

――実にいい日ではありませんか。これで悲しみや苦しみはおしまいにしたいもんです。これからはもうどこにも悲しいことがあってはいけません。まったく私は喜びを主張します。悪は存在の権利を持つものではありません。実際世に不幸な人々がいることは、青空に対して恥ずべきことです。

――彼らふたりは光り輝いていた。彼らは、再び来ることのない見いだそうとて見いだせない瞬間にあり、あらゆる青春と喜悦とのまばゆい交差点にあった。彼らはジャン・プルーヴェールの詩を実現していた。ふたりの年齢を合わしても四十歳に満たなかった。精気のような結婚であって、そのふたりの若者は二つの百合の花であった。

――今は大尉になってるテオデュール・ジルノルマン将校も、徒弟ポンメルシーの結婚に列するため、任地のシャルトルからやってきていた。コゼットは彼の顔を忘れていた。

――その空の肱掛け椅子のために、婚礼の宴は一時白けた。しかしフォーシュルヴァン氏は不在でも、ジルノルマン氏がそこにいて、ふたり分にぎやかにしていた。もし傷が痛むようならフォーシュルヴァン氏は早くから床につかれた方がよいが、しかしそれもちょっとしたいたいたに過ぎない、と彼は断言した。そしてその言葉でもう充分だった。

――お前たちがふたりいっしょにいさえすれば、何も不足なものはなく、コゼットはマリユスにとって太陽となり、マリユスはコゼットにとって全世界となる、そういうふうでなくてはいかん。コゼット、夫のほほえみをお前の晴天とするがいい、マリユス、妻の涙をお前の雨とするがいい。

―― 愛しもしくは愛した、それで充分である。更に求むることをやめよ。人生の暗い襞のうちに見いだされ得る真珠は、ただそれのみである。愛することは成就することである。

 

三 側より離さざる物

 ジャン・ヴァルジャンは、部屋に戻った。そして、あの小さなカバンを開けた。そこには、コゼットが十年前にモンフェルメイユを去るときに身につけていた衣装が入っていた。ジャン・ヴァルジャンは、昔を思い出して、激しくすすり泣いた。

 

―― ジャン・ヴァルジャンは自分の家に戻った。蝋燭をともして階段を上っていった。部屋はがらんとしていた。トゥーサンももういなかった。ジャン・ヴァルジャンの足音は、部屋の中にいつもより高く響いた。戸棚は皆開かれていた。彼はコゼットの室へはいった。寝台には敷き布もなかった。綾布の枕は枕掛けもレース飾りもなくなって、床の下しもの方にたたまれてる夜具の上にのせてあり、床はむき出しになってもうだれも寝られないようになっていた。コゼットが大事にしていた細々した婦人用の器物は、皆持ってゆかれていた。残ってるのはただ、大きな家具と四方の壁ばかりだった。

――冬で、ごく寒い十二月のことだった。彼女はぼろを着て半ば裸のまま震えていた。そのあわれな小さな足は木靴をはいてまっかになっていた。彼ジャン・ヴァルジャンは、それらの破れ物を脱がせて、この喪服をつけさしてやった。彼女の母も、彼女が自分のために喪服をつけるのを見、ことに相当な服装をして暖かにしてるのを見ては、墓の中できっと喜んだに違いなかった。また彼はモンフェルメイュの森のことを思い出していた。コゼットと彼とはふたりいっしょにその森を通っていった。天気のこと、葉の落ちた樹木のこと、小鳥のいない木立ちのこと、太陽の見えない空のこと、それでもなお楽しかったこと、などが皆思い出された。

 

四 きわみなき苦悶

 ジャン・ヴァルジャンは夜通し悩み続けた。

――ああ、利己心と義務との激戦において、昏迷し、奮激し、降伏を肯ぜず、地歩を争い、何らかの逃げ道をねがい、一つの出口を求めつつ、巍然たる理想の前から一歩一歩退く時、後方にある壁の根本は、いかに凄惨なる抵抗を突然なすことであるか。

――彼はそのまま同じ態度で、寝床の上に身をかがめ、巨大な運命の下に平伏し、おそらくは痛ましくも押しつぶされ、十字架につけられた後俯向けに投げ出された者のように、拳を握りしめ両腕を十の字にひろげて、夜が明けるまでじっとしていた。