ビクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』読書メモ㊼

 

ビクトル・ユーゴー Victor Hugo 豊島与志雄訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第五部 ジャン・ヴァルジャン (aozora.gr.jp)

 

二十一 勇士

 突撃が始まった。仲間たちは死んでしまった。

 

――防寨には、一端にアンジョーラがおり、他の一端にマリユスがいた。全防寨を頭のうちに担ってるアンジョーラは最後まで身を保とうとして潜んでいた。

――マリユスは身をさらして戦っていた。

――クールフェーラックは帽子をかぶっていなかった。

「帽子をいったいどうした。」とボシュエは彼に尋ねた。

 クールフェーラックは答えた。

「奴やつらが大砲の弾で飛ばしてしまった。」

――「わけがわからない、」とフイイーは苦々にしげに叫んだ、「彼等は、(そしてフイイーは、旧軍隊のうちの知名な人や高名な人など、若干の名前を一々あげた、)われわれに加わると約束し、われわれを助けると誓い、名誉にかけて明言し、しかもわれわれの将たるべき者でありながら、われわれを見捨てるのか!」

 それに対してコンブフェールは、落ち着いた微笑をしながらただこう答えた。

「世間には、星をながむるようにただ遠方から名誉の法則を観測する者もあるさ。」

 

――彼らは敵を間近に引き受け、ピストルやサーベルや拳固で接戦し、遠くから、近くから、上から、下から、至る所から、人家の屋根から、居酒屋の窓から、またある者はあなぐらにすべり込んでその風窓から、戦った。ひとりをもって六十人を相手とした。コラント亭の正面は半ば破壊されて、見る影もなくなった。窓は霰弾を打ち込まれて、ガラスも窓縁もなく、舗石でむちゃくちゃにふさがれてるぶかっこうな穴に過ぎなくなった。ボシュエは殺され、フイイーは殺され、クールフェーラックは殺され、ジョリーは殺され、コンブフェールはひとりの負傷兵を引き起こそうとするせつな、三本の銃剣で胸を貫かれ、わずかに空を仰いだだけで息絶えた。

 マリユスはなお戦っていたが、全身傷におおわれ、ことに頭部がはなはだしく、顔は血潮の下に見えなくなり、あたかもまっかなハンカチを顔にかぶせたがようだった。

 アンジョーラひとりはどこにも傷を受けなかった。武器がなくなった時、左右に手を伸ばして何かをつかみ取ろうとすると、ひとりの暴徒が彼の手に刃物の一片を渡してくれた。マリニャーノの戦いにフランソア一世は三本の剣を使ったが、彼は実に四本の剣を使いつくして、今やその折れた一片を手にしてるのみだった。

 

二十二 接戦

 残った首領はアンジョルラスとマリウスの二人だけだった。

 

――マリユスは外に残されていた。一発の弾を鎖骨に受けたのである。彼は気が遠くなって倒れかかるのを感じた。その時彼は既に眼を閉じていたが、強い手につかみ取らるるような感じを受け、気を失って我を忘れる前にちらと、コゼットのことが最後に思い出され、それとともにこういう考えが浮かんだ、「捕虜となった、銃殺されるのだ。」

 

――彼はマブーフとガヴローシュが横たわってるテーブルに近づいた。喪布の下には、まっすぐな硬こわばった姿が大きいのと小さいのと二つ見えており、二つの顔は死装束の冷ややかなひだの下にぼんやり浮き出していた。喪布の下から一本の手が出て下にたれていた。それは老人の手であった。

 アンジョーラは身をかがめて、前日その額にくちびるをあてたように、その尊むべき手に脣をあてた。

 それは彼が生涯のうちにした唯一の二度のくちづけだった。

 

――最後に、戸が破れた時には、みな殺しの狂猛な蛮行が演ぜられた。襲撃者らはこわされて床に投げ出された戸の板に足を取られながら、居酒屋の中に突入したが、そこにはひとりの敵もいなかった。螺旋状の階段は斧に断ち切られて部屋のまんなかに横たわっており、数人の負傷者らは既に息絶えており、生命のある者は皆二階に上がっていた。階段の入口だったその天井の穴から、恐怖すべき銃火が爆発した。それは最後の弾薬であった。その弾薬が尽きた時、瀕死の苦しみのうちにある恐ろしい彼らに火薬も弾もなくなった時、前に述べたとおりアンジョーラが取って置かした壜を各自に二本ずつ取り上げ、そのこわれやすい棍棒をもって上がってくる兵士らに対抗した。それは葡萄酒ではなく硝酸の壜だった。

 

二十三 断食者と酩酊者とのふたりの友

 アンジョルラスの最期。グランテールが目を覚ます。そして、二人の最期。

 

――「これが首領だ。砲手を殺したのもこの男だ。そこに立ってるのはちょうどいい。そのままでいろ。すぐ銃殺してやる。」

「打て。」とアンジョーラは言った。

 そしてカラビン銃の断片を投げすて、腕を組んで、胸を差し出した。

 みごとな死を遂げる豪胆さは、常に人を感動させるものである。アンジョーラが腕を組んで最期を甘受するや、室の中の争闘の響きはやみ、その混乱はたちまち墳墓のごとき厳粛さに静まり返った。武器をすてて身動きもせずに立ってるアンジョーラの威風は、騒擾を押さえつけてしまったかと思われた。ただひとり一個所の傷も負わず、崇高な姿で、血にまみれ、麗しい顔をし、不死身なるかのように平然としているこの青年は、その落ち着いた一瞥の威厳のみで既に、ものすごい一群の者らをして、彼を殺すに当たって尊敬の念を起こさしめるかと思われた。彼の美貌は、その瞬間矜持の念にいっそう麗しくなって、光り輝いていた。そして負傷を知らないとともに疲労をも知らない身であるかのように、恐るべき二十四時間を経きたった後にもなお、その面おもては鮮やかな薔薇色をしていた。一証人が、その後軍法会議の前で、「アポロンと呼ばるるひとりの暴徒がいた」と語ったのは、たぶん彼のことを言ったのであろう。アンジョーラをねらっていたひとりの国民兵は、銃をおろしながら言った、「花を打つような気がする。」

 

――グランテールはびっくりして身を起こし、両腕を伸ばし、眼を擦り、あたりをながめ、欠伸をし、そしていっさいを了解した。

――グランテールは片すみに押しやられ、球突台のうしろに隠れたようになっていたので、アンジョーラの上に目を据えていた兵士らは、少しも彼に気づかなかった。そして軍曹が「ねらえ」という命令を再び下そうとした時、突然兵士らの耳に、傍から強い叫び声が響いた。

「共和万歳! 吾輩もそのひとりだ。」

 グランテールは立ち上がっていた。

 参加しそこなって仲間にはいることができなかった全戦闘の燦然たる光は、様子を変えたこの酔漢の輝く目の中に現われた。

 彼は「共和万歳!」と繰り返し、しっかりした足取りで部屋を横ぎり、アンジョーラの傍に立って銃口の前に身を置いた。

「一打ちでわれわれふたりを倒してみろ。」と彼は言った。

 そして静かにアンジョーラの方を向いて言った。

「承知してくれるか。」

 アンジョーラは微笑しながら彼の手を握った。

 その微笑が終わらぬうちに、発射の音が響いた。

 アンジョーラは八発の弾に貫かれ、あたかも弾で釘付くぎづけにされたかのように壁によりかかったままだった。ただ頭をたれた。

 グランテールは雷に打たれたようになって、その足下に倒れた。

 

二十四 捕虜

 意識を失ったマリウスは、ジャン・ヴァルジャンに助けられ、敷石の下から地下へ。