ビクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』読書メモ㊶

 

ビクトル・ユーゴー Victor Hugo 豊島与志雄訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌 (aozora.gr.jp)

 

第十四編 絶望の壮観

 

六 生の苦しみの後に氏の苦しみ

 マリウスを闇の中から呼ぶ弱々しい声。マリウスをかばって銃弾を受けたエポニーヌだった。エポニーヌはマリウスの腕の中で死のうとしていた。ガヴローシュの若々しい声がバリケードに響く。あれは弟だとエポニーヌは言う。そして、マリウスにコゼットからの手紙を渡し、自分が死んだら額にキスをしてほしいと言ったあと、マリウスに愛を告白し、息絶えた。

 

――「あなたあたしがわかりますか。」

「いいや。」

「エポニーヌですよ。」

 マリユスは急に身をかがめた。実際それはあの不幸な娘だった。彼女は男の姿を装っていた。

「どうしてここへきたんだ? 何をしていた?」

「あたしもう死にます。」と彼女は言った。

 

――「弾は手を突き通して、背中へぬけたのよ。ここからあたしを外へ連れてってもだめ。あたしほんとは、お医者よりあなたの看護の方がいいの。あたしの傍にこの石の上にすわって下さいな。

 彼はその言葉に従った。彼女は彼の膝の上に頭をのせ、その顔から目をそらして言った。

ああ、ありがたい。ほんとによくなった。もうこれであたし苦しかない。

 

――あなたをここへ呼んだのはあたしよ。あなたはどうせ間もなく死ぬにきまってるわ。あたしそれをちゃんと知ってるの。だけど、人があなたをねらうのを見た時、あたしはその鉄砲の口に手をあてたわ。ほんとに変ね。でもあなたより先に死にたかったからよ。弾たまを受けた時、あたしはここまではってきたの。だれにも見つからず、だれからも助けられなかった。あたしあなたを待ってたわ。きなさらないのかしら、とも思ったの。あああたしは、上衣をかみしめたり、どんなに苦しんだでしょう。でも今はもう何ともない。

 

――「弟がきてるのよ。見つかっては困るわ。文句を言うに違いないから。」

「弟だって?」とマリユスは尋ねた。彼は心の底の最も苦しい悲しい奥で、父から遺言されたテナルディエ一家の者に対する義務のことを考えていたのである。「弟というのはどの男だ?」

「あの子供よ。」

「歌を歌ってるあの子供?」

「ええ。」

 マリユスは身を動かした。

「ああ行ってはいや!」と彼女は言った、「もうあたし長くもたないから。」

 

――「聞いて下さいな、あたしあなたをだますのはきらいだから。ポケットの中に、あなたあての手紙を持ってるのよ。昨日からよ。郵便箱に入れてくれと頼まれたのを、取って置いたのよ。あなたに届くのがいやだったから。だけど、あとでまた会う時、あなたから怒られるかも知れないと思ったの。また会えるのね。あの世で。手紙を取って下さいな。」

 彼女は穴のあいた手で、痙攣的にマリユスの手をつかんだ。もう痛みをも感じていないらしかった。そしてマリユスの手を自分の上衣ポケットにさし入れさした。マリユスは果たしてそこに紙があるのを感じた。

「取って下さい。」と彼女は言った。

 マリユスは手紙を取った。

 彼女は安心と満足との様子をした。

「さあその代わりに、約束して下さいな……。」

 そして彼女は言葉を切った。

「何を?」とマリユスは尋ねた。

「約束して下さい!」

「ああ約束する。」

「あたしが死んだら、あたしの額にキスしてやると、約束して下さい。……死んでもわかるでしょうから。

 彼女はまた頭をマリユスの膝の上に落とし、眼瞼を閉じた。彼はもうそのあわれな魂が去ったと思った。エポニーヌはじっと動かなかった。すると突然、もう永久に眠ったのだとマリユスが思った瞬間、彼女は静かに、死の深い影が宿ってる目を見開いた。そして他界から来るかと思われるようなやさしい調子で彼に言った。

「そして、ねえ、マリユスさん、あたしいくらかあなたを慕ってたように思うの。」

 彼女はも一度ほほえもうとした。そして息絶えた。

 

七 距離の推測に巧みなるガヴローシュ

 マリウスはエポニーヌとの約束を守った。そして、手紙を読んだ。コゼットは、ジャン・ヴァルジャンからロンドンへの引っ越しを知らされたあと、表をうろついていた若い労働者に、五フランを渡して、手紙をあて名の人に届けてほしいと頼んだ。エポニーヌは、クールフェーラックの家に行き、マリウスを尋ねた。手紙を渡すためではなく、嫉妬と恋をいだきながら、ただ様子を見るためだった。マリウスは、コゼットが自分を愛してくれていることを知り、うれしくなった。そして、ガヴローシュに、コゼットの手紙のあて名となっていたオンム・アルメ街七番地への手紙と、祖父宛の手紙を預けた。ガヴローシュを、なんとかしてバリケードの外へ逃がしたかった。

 

――彼は冷たい汗がにじんでる青ざめた額にくちびるをあてた。それはコゼットに不実な行ないではなかった。不幸なる魂に対する心からのやさしい別れだった。

――「われわれは防寨に行くんだ」とクールフェーラックが言った時、彼女の頭にふとある考えが浮かんだ。どうせ身を殺すならその死の淵の中へ飛び込んでやり、マリユスをも引き込んでやろう。

――手紙は自分が横取りしてるので、彼はきっと日が暮れると毎晩のように出会いの場所へ行くに違いないと考えて、プリューメ街に行き、そこでマリユスを待ち受け、彼を防寨におびき出せるに違いないと思われる呼び声を、友人らの名を借りて投げつけた。

――マリユスは幾度となくコゼットの手紙にくちびるをあてた。彼女はやっぱり自分を愛していたのか! 彼はちょっとの間、もう死ななくてもいいという気が起こった。

――その時彼は、自分の果たすべき二つの義務が残ってることを考えた。一つは、コゼットに自分の死を知らせ、最後の別れを告げること。一つは、テナルディエの子でありエポニーヌの弟であるあのあわれな少年を、まさにきたらんとする切迫せる破滅の淵から救うこと。

 

――彼はその紙ばさみを、上衣のポケットに納め、それからガヴローシュを呼んだ。浮浪少年はマリユスの声を聞いて、うれしげなまた献身的な顔つきをして走ってきた。
「僕のために少し用をしてくれないか。」
「何でもする。」
とガヴローシュは言った。