ビクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』読書メ㉟

 

ビクトル・ユーゴー Victor Hugo 豊島与志雄訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌 (aozora.gr.jp)

 

第十編 一八三二年六月五日

 

一 問題の表面

 この日、暴動が起きた。ユーゴー氏、暴動について論じるぞと言う。

 

二 問題の底

 ユーゴー先生、歴史の授業。

 

――世には暴動があり、また反乱がある。それは二つの憤怒であって、一つは不正であり、一つは正しい。

――一八三二年のこの騒動は、その急激な爆発とその悲しい終滅とのうちに、多くの壮大さを持つがゆえに、そこに暴動をしか認めない者らでさえも、それを語るには尊敬の念を禁じ得ないであろう。

 

三 埋葬――再生の機会 Do you hear the people sing!

 1832年6月5日、ラマルク将軍の死と暴動の勃発。

 

――ラマルクは名声の高い活動的な人物だった。彼は帝政と王政復古との下において、両時代に必要なる二つの勇気を相次いで示した、すなわち戦場の勇気と演壇の勇気を。

――彼の死は予期されていたが、民衆からは一つの損失として恐れられ、政府からは何かの機会として恐れられていた。その死は一般の喪となった。しかしすべて悲痛なるものと同様に、喪も騒乱となることがある。それが今まさしく起こったのである。

――ラマルクの葬式の定日たる六月六日の前日とその朝、サン・タントアーヌ郭外は、葬式の行列がすぐそばを通るというので、恐るべき光景を呈した。

 

――六月五日は晴雨定めない日だったが、ラマルク将軍の葬式の行列は、用心のためいっそういかめしくされた陸軍の公式盛儀をもってパリーを横ぎっていった。太鼓に喪紗をつけ小銃を逆さにした二大隊の兵士、帯剣した一万の国民兵、国民軍の砲兵隊、などが柩を護衛していた。棺車は青年らに引かれていた。廃兵院の将校らが、月桂樹の枝を持ってすぐ棺車の後ろに従った。その次には動揺せる異様な無数の群集がやってきた。

――川の左岸には市の守備騎兵が動き出して橋をさえぎり、右岸には竜騎兵がセレスタンから現われてきてモルラン河岸に沿って展開した。ラファイエットの馬車を引いていた者らは、河岸の曲がり角かどで突然それに気づいて、「竜騎兵だ、竜騎兵だ!」と叫んだ。

――事実を言えば、突然小銃が三発発射されたのであって、第一発は中隊長ショーレを殺し、第二発はコントレスカルプ街で窓を閉じていた聾の婆さんを殺し、第三発は一将校の肩章にあたった。

――人々は「武器を取れ!」と叫び、走り、つまずき、逃げ、あるいは抵抗した。風が火を散らすように、憤激の念は暴動を八方にひろげていった。

 

・オーステルリッツ橋の前の広場(※バスティーユ広場に変更)群衆は彗星のような形に(頭:橋の広場・尾:ブールドン河岸をサン・マルタンまで伸びていた)。ラファイエットがラマルクに別れの弔辞を述べた。黒衣をまとった馬上の男が、赤旗を持って群集のまんなかに現われた

 ・「ラマルクをパンテオンへ!」…青年たちが、ラマルクの棺車を引いて、オーステルリッツ橋を渡る。 追い詰められた青年たちは棺車を引いて、市の守備兵を襲った。

 ・「ラファイエットを市庁へ!」…青年たちは、ラファイエットを辻馬車に乗せて、モルラン河岸に引き始める。

 

四 沸騰

 数時間ののち、パリの三分の一は暴徒の手の中にあった。

――テュイルリー宮殿は静まり返っていた。ルイ・フィリップは平然と構えていた。

 

五 パリーの特性

 暴動が起きても、パリは平静を保つことができた。しかし、さすがに今回はちがった。

 

――反乱中のパリーの姿ほど、暴徒の手に帰した町々を除いては、妙に平静なものは普通あまり見られない。パリーは何事にもすぐになれてしまう。

――およそこれほど不思議なありさまは世にあるまい。そしてそこにこそ他のいかなる都会にも見いだされないパリーの暴動の個性がある。それには二つのことが必要なのである。パリーの偉大さとパリーの快活さと。実にナポレオンの町であり、またヴォルテールの町でなければならないのである。