ビクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』読書メモ㉝
ビクトル・ユーゴー Victor Hugo 豊島与志雄訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌 (aozora.gr.jp)
第八編 歓喜と憂苦
一 充満せる光
1832年5月。毎夜、マリウスとコゼットは庭の藪の下で会っていた。至福のひと時だった。
――読者のすでに了解するとおり、エポニーヌはマニョンに言いつけられてプリューメ街に行き、そこに住んでる娘を鉄門越しに見て取って、まず盗賊どもをその家から他にそらし、次に、マリユスを連れてきたのであった。
――あなたはきれいね、美しいのね、才気があって、よく物がわかってて、私よりずっと学問があるのね。でも愛するって方じゃ私あなたに負けないわ。
二 恍惚たる至福
コレラが蔓延していたが、彼らは気にも留めなかった。
――マリユスはコゼットに語った、自分は孤児であること、マリユス・ポンメルシーという者であること、弁護士であること、本屋のために物を書いて生活してること、父は大佐であり、勇士であったこと、自分は金持ちの祖父と仲を違えたこと。彼はまた自分が男爵であることをもそれとなく語ったが、それはコゼットに何の感じをも与えなかった。
――彼女の方でもまた彼に打ち明けた、自分はプティー・ピクプュスの修道院で育てられたこと、自分の方も母が亡いこと、父はフォーシュルヴァン氏という名であること、父は至って親切で、貧しい人々に多くの施与をしてること、けれども彼自身は貧乏であること、そして娘の自分には少しも不自由をさせないが、彼自身はきわめて乏しい生活をしていること。
――マリユスもコゼットも、かくしてついにはどこに導かれんとするかを自ら尋ねなかった。彼らは既に到達したものと自ら思っていた。愛が人をどこかに導かんことを望むのは、人間の愚かなる願いである。
三 影のはじまり
ジャン・ヴァルジャンは、気づいていなかった。トゥーサン婆さんも、何も気づいていなかった。同居人のクールフェラックは忠告した。ある夜、マリウスがコゼットのところへ向かう時、エポニーヌが声をかけた。
――クールフェーラックはバオレルに言った。
「おい君、マリユスはこの頃夜の一時ごろ帰ってくるんだぜ。」
バオレルは答えた。
「驚くには及ばないさ。謹厳な者にはどうせ無鉄砲なことがある。」
時々、クールフェーラックは腕を組み、まじめなふうをして、マリユスに言った。
「君は無茶になってるね。」
実際家であるクールフェーラックは、マリユスの上に漂っている目に見えぬ楽園の反映を、よいことには思わなかった。彼は秘めたる恋愛などというものにはなれていなかった。そしてそれをもどかしがって、時々マリユスを現実に引き戻そうとつとめた。
――「ああ、あなたですか、エポニーヌ。」
「なぜあなたなんていうの。あたし何か悪いことでもして?」
「いいえ。」と彼は答えた。
確かに彼は何も彼女に含むところはなかった。そんなことはまったくなかった。ただ、コゼットと親しい調子になってる今では、エポニーヌに対してよそよそしい調子を取らざるを得ないような気がしたまでである。
彼が黙っているので、彼女は叫んだ。
「何なの……。」
そして彼女は言葉を切った。以前はあれほどむとんちゃくで厚かましかった彼女も、今は口をききかねてるらしかった。彼女はほほえもうとしたが、それもできなかった。彼女はまた言った。
「なーに?……。」
そう言いかけて彼女はまた口をつぐみ、目を伏せてしまった。
「さようなら、マリユスさん。」とだしぬけに彼女は言って、向こうに立ち去ってしまった。
四 隠語を解する番犬
6月3日。マリウスは、二日続けてエポニーヌを見かけた。彼は道を変えたが、エポニーヌは跡をつけた。マリウスが庭に入るのを見て、「いけない!」とつぶやいた。そして、マリウスを守るべく入口で番をした。まもなく、六人の男(テナルディエ/クラクズー/グールメル/バベ/モンパルナス/ブリュジョン)がプリューメ街に入って来た。そして、屋敷の鉄門を調べ始めたとき、その手を払いのけて、エポニーヌが「犬がいるよ」と言った。相手はテナルディエだった。なんとかして男たちを足止めしようとする。
――エポニーヌは最後の努力を試みた。
「でもね、」と彼女は言った、「ごく貧乏な人たちよ。一スーのお金もないきたない家だよ。」
「ぐずぐず言うな!」とテナルディエは叫んだ。
――「みんなお聞き。そんなことはさせやしない。あたしは言っておくよ。第一この庭にはいろうもんなら、この鉄門に手でもかけようもんなら、あたしはどなって、戸をたたいて、人を起こして、六人とも捕えさしてやるよ、巡査を呼んでやるよ。」
「ほんとにやるかも知れねえ。」とテナルディエはブリュジョンと腹声の男とにささやいた。
――「父さんの棒で打ち殺されて、明日プリューメ街の舗石の上で身体を拾われようとさ、また一年たって、サン・クルーの川の中かシーニュの島かで、古い腐った芥かおぼれた犬の死骸かの中で拾われようとさ、それが何だね。」
そこで彼女はやむなく言葉を切った。乾燥した咳がこみ上げてき、狭い虚弱な胸から息が死人のあえぎのように出てきた。
彼女はまた言った。
「あたしが一声上げさえすりゃあ、人はどしどしやって来る。お前さんたちは六人だが、あたしの方には世界中がついてるんだ。」
――「お前たちの方があたしの邪魔をしてるんだよ。」とエポニーヌは言った。
「だが俺たちも生きてゆかなけりゃならねえからな、食ってゆかなけりゃ……。」
「死んでおしまいよ。」
そう言って彼女は、鉄門の台石に腰掛けながら、歌い出した。
――「あいつどうかしてる。」とバベは言った。「何か訳がある。だれかに惚ほれ込んでるのかな。だがこれをうっちゃるなあ惜しいな。」
――ブリュジョンはなおしばらく黙っていたが、それから種々なふうに何度も頭を振り、ついに心をきめて言い出した。
「実はね、今朝二匹の雀が喧嘩するのに出会ったし、今晩はまた、女の反対にぶっつかった。どうも辻占いがいけねえ。こりゃやめにしようや。」
それで彼らは立ち去っていった。
――バベはモンパルナスに答えた。「俺はいやだね。御婦人に手を下すこたあしたくねえ。」
――「今晩どこで寝よう。」
「パリーの下にしよう。」
「テナルディエ、お前、門の鍵は持ってるか。」
「うむ。」
五 夜のもの
再びプリューメ街に静寂が戻った。