ビクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』読書メモ㉛

 

ビクトル・ユーゴー Victor Hugo 豊島与志雄訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌 (aozora.gr.jp)

 

第六編 少年ガヴローシュ

 

一 風の悪戯

 1823年ごろ、まだテナルディエがモンフェルメイユで宿屋をやっていたころの話。テナルディエ夫妻には、さらに二人の子どもが生まれた。夫人はこの二人を厄介払いしたかった。ちょうどマニョンがふたりの子を亡くし、ジルノルマン老人からの金が途絶えてしまうと困っていたので、替え玉として二人を貸し与えて、月に十フランをもらうことになった。テナルディエがジョンドレッドと名を変えたのは、このころだった。そんなマニョンは、1832年に、バベからの手紙をエポニーヌに届けた直後、同居人のミス嬢とともに捕らえられ、二人の子どもが取り残された。母の書置きを渡され、ふたりはジルノルマン老人の執事バルジュのところへ行くように言われたが、かじかむ手から、風が紙片を奪い去った。ふたりはあてもなく往来をさまよった。

 

――読者が前に見たとおり、彼女は既に長男を憎んでいたが、他のふたりをもまたのろっていた。なぜかと言えば、ただきらいだからだった。最も恐るべき動機であり、最もどうにもできない理由だった、すなわちただきらいだから。

――ふたりの娘とガヴローシュとは、ふたりの小さな弟がいたことにはほとんど気づく暇もなかった。ある程度の悲惨に陥ると、人は奇怪な無関心の状態になって、人間をも幽霊のように思えてくる。

 

・マニョン…ジルノルマン老人から、ふたりの子どもを種に、毎月八十フランを引き出していたが、二人を同じ日に亡くしてしまった。かわりに、テナルディエの二人の子をもらいうけ、ジルノルマン老人をだまして、毎月の金をもらい続けることに成功した。しかし、エポニーヌに、バベからの手紙を渡した後、警察にとらえられる。

・ミス嬢…マニョンと一緒に住んでいる。

・バルジュ氏…ジルノルマン老人の執事。毎月マニョンに金を届ける。

 

二 少年ガヴローシュ大ナポレオンを利用す

 1832年の春、19世紀最初のコレラが大流行した年。ガヴローシュが石鹸でもくすねてやろうと床屋の店先を見ていたら、七歳くらいの子と五歳くらいの子が、泣きながら理髪店に入り、そして追い返されていた。ガヴローシュは追いかけて声をかけた。二人が寝るところがないと言って泣くので、「まあ俺といっしょにこいよ」と誘う。その後、十三、四の娘が寒そうにしているのを見て、首巻きをかけてやった。

――「なんだつまらねえ。それぐらいのことに泣いてるのか。カナリヤみたいだな。」そして年長者らしい嘲弄半分の気持から、少しかわいそうに見下すようなまたやさしくいたわるような調子で言った。「まあ俺おれといっしょにこいよ。」

――ガヴローシュは「ぶるる!」とくちびるでうなって、聖マルティヌスよりもいっそうひどく震え上がった。

 

 ガヴローシュは、二人の男の子にパンをごちそうしてやる。そして、「だが、俺にもし子供でもあったら、もっと大事にするかも知れねえ。」とつぶやいた(もちろんこの二人の少年は、ガヴローシュが知らない間に生まれ、知らない間に別れた二人の弟である)。

――「白いパンがいるんだ。洗い立てのようなやつだ。俺がごちそうするんだからな。」

 パン屋は思わず微笑して、それから白パンを切りながら、三人をあわれむようにながめた。ガヴローシュはそれがしゃくにさわった。

 

 バレー街の角で、変装したモンパルナスに声をかけられ、バベが今朝脱獄したことを知らされる。

――「この間妙なことがあったよ。まあ俺おれがある市民に会ったと思うがいい。するとその男が俺にお説教と財布とをくれた。俺はそれをポケットに入れた。ところがすぐあとでポケットを探ると、もう何にもねえんだ。」

「お説教だけ残ったんだな。」とガヴローシュは言った。

 

 そして、ガヴローシュは、住処に二人の少年を案内する。ナポレオンがエジプト遠征の記念にたてた漆喰の象だ。夜明け、モンパルナスが訪ねて来た。「お前にきてもらいたいんだ。ちょっと手を貸してくれ。」

――それは木材と漆喰とで作られた高さ四十尺ばかりの象の姿で、背中の上には家のような塔が立っていて、昔はペンキ屋の手で青く塗られていたが、当時はもう長い間の風雨に黒ずんでしまっていた。そして広場の寂しい露天の一隅で、その巨大な額、鼻、牙、背中の塔、大きなしり、大円柱のような四本の足などは、夜分星の輝いた空の上に、恐ろしい姿で高くそびえて浮き出していた。何とも言えない感じを人に与えた。民衆の力の象徴とも言えるものだった。

――「おじさん。」

「何だ?」

「食われたのはなに?」

「猫よ。」

「猫を食ったのはなに?」

「鼠だ。」

「ちゅうちゅが?」

「うむ、鼠だ。」

 子供は猫を食うというそのちゅうちゅにびっくりして、なお尋ね出した。

「おじさん、私たちまで食べますか、そのちゅうちゅは。」

「あたりまえさ。」とガヴローシュは言った。

 子供の恐怖は極度になった。しかしガヴローシュは言い添えた。

「こわがるこたあねえ。はいれやしないんだ。その上俺がついてる。さあ俺の手を握っておれ。そして黙ってねくたばるんだ。」

 

三 脱走の危機

 悪党どもの脱獄について。モンパルナスがなぜガヴローシュを呼びに来たのか、ここで明らかになる。ガヴローシュは父を救うことになる。

 

・ブリュジョン…懲罰官房に一か月入れられた。その間に綱をこしらえ、計画を立てた。ブリュジョンは、新館に移され、グールメルと同じ寝室に置かれた。暖炉の煙突が一階から五階まで通っており、屋根まで突き抜けていたが、ちょうど彼らの寝台は煙突に接していた。往来でバベとモンパルナスが待ち受けているのを知り、二人はブリュジョンの見つけた釘で、煙突を破り始める。そして、激しい風雨の中、ブリュジョンの綱を使って、脱獄に成功した。

――彼はやさしい気質を持ってるらしい容貌をそなえ、深い下心のあるしおれ方をしているが、磨きをかけた怜悧な快男子で、甘える目つきと残忍な微笑とを持ってる盗賊だった

 

・テナルディエ…強盗として危険視され、新館の上層(屋根裏)に秘密監禁されていた。麻酔薬入りの葡萄酒を手に入れて隠していた。それで兵士を眠らせ、兵士の剣を持って、新館の屋根から、ブリュジョンの綱をつたって外へ出たが、綱が切れて短くなっていた。その逃走経路は見つからないままだった。午前四時、絶体絶命だった。「落ちれば死ぬ、このままではつかまる。」。そこへ四人の男が来て、テナルディエを救い出そうとする。ブリュジョン、バベ、モンパルナス、グールメルだった。バベがブリュジョンの綱の切れ端を投げ入れようとしたが、テナルディエは四階の高さで凍えて動けなくなった。石膏の管の割れ目を伝って四階まで救いに行くには、子供でなければ無理だ。モンパルナスがガヴローシュを呼びに行った。ガヴローシュは父を救った。盗賊たちは、仕事先として、ジャン・ヴァルジャンとコゼットの家に狙いをつける。

 

――自由に対する命がけの渇望は、深淵をも浅い溝となし、鉄の格子こうしをも柳の枝の簀の子のことなし、跛者をも壮者となし、足なえをも鳥となし、愚鈍を本能となし、本能を知力となし、知力を天才となすものであって、その渇望の念に啓発されたテナルディエは、あるいは第三の方法を即座に発明したのかも知れなかった。しかしそれはついに不可解に終わった。

――事実を言えば、互いに見捨てないという盗賊仲間の義理から、四人の者はテナルディエがどこかの壁の上に出て来るだろうと思って、危険もかまわずに、フォルス監獄のまわりを終夜うろついていたのである。

――テナルディエの婿と言ってもまあさしつかえないモンパルナスでさえ、もう思い切った。そして彼らは今や立ち去ろうとした。

 

――グールメルが彼に言葉をかけた。

「小僧、貴様は一人前か。」

 ガヴローシュは肩をそびやかして答えた。

「俺のようなガキは一人前だが、お前たちのような大人はまだねんねえだ。」

「こいつ、よく舌が回りやがる。」とバベは叫んだ。

「パリーのガキは藁人形じゃねえ。」とブリュジョンは言葉を添えた。

 

――そこから彼が上って行こうとした時、テナルディエは救済と生命とが近づくのを見て、壁の端からのぞき出した。彼の汗にまみれた額、青ざめた頬骨、猛悪な鋭い鼻、逆立った灰色の髭、などが暁の初光にほの白く浮き出して、ガヴローシュはそれがだれであるかを見て取った。

「やあ、」と彼は言った、「親父だな。……なにかまうこたあねえ。」

――「お前はあの小僧をよく見たか。」とバベは尋ねた。

「どの小僧?」

「壁に上ってお前に綱を渡したあの小僧だ。」

「よかあ見ねえ。」

「俺にもよくわからねえが、何だかお前の息子らしかったぜ。」

「ほう、」とテナルディエは言った、「そうかね。」

 そして彼は向こうへ立ち去っていった。