ビクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』読書メモ㉘

 

ビクトル・ユーゴー Victor Hugo 豊島与志雄訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌 (aozora.gr.jp)

 

 

第二編 エポニーヌ

 

一 雲雀の野

 マリウスはゴルボー屋敷を引き払い、クールフェラックのところに泊まり込むようになった。毎週、フォルス監獄のテナルディエに五フランずつ送るのだが、金のないマリウスは、そのたびにクールフェラックから借金した。そして、再び愛する彼女を見失ってしまったことに絶望した。そして、アルーエット(雲雀)という彼女の呼び名にちなんで、雲雀の野に毎日通った。

 

――愛する若い娘を、その父親らしい老人を、この世における唯一の心がかりであり唯一の希望であるその身元不明のふたりを、暗黒の中に一瞬間目近に見いだしたのだったが、彼らをついにつかみ得たと思った瞬間にはもう、一陣の風がその姿を吹き去ってしまっていた。

――彼は押し放されまた引きつけられて、身動きもできなかった。愛を除いてはすべてが消えうせてしまった。

――今や彼の生涯は次の一語につくされていた、見透かし難い靄もやの中における絶対の不確実。再び彼女を見ること、それを彼は常に熱望していたが、しかしもうそれができるという期待は持たなかった。

――ある程度までの夢想は、一定の分量の麻酔剤のごとく有効なものである。それは、労苦せる知力の時としては荒い熱をもしずめる、そして精神のうちにさわやかな柔らかい潤いを生じさして、醇乎たる思索の、あまりに峻厳な輪郭をなめらかにし、処々の欠陥や間隙をうずめ、全体をよく結びつけ、観念の角をぼかしてくれる。しかしあまりに多くの夢想は人を沈めおぼらす。思索からまったく夢想のうちに陥ってゆく精神的労働者は災いなるかなである。彼は再び上に浮かび出すことは容易であると信じ、要するに同じであると考える。しかしそれは誤りである。

――目前にいない者の追想は心のやみの中に輝き出す。深く姿を消せば消すほどますます輝いてくる。絶望した暗い心は自分の地平にその光輝を見る。内心の暗夜に光る星である。彼女、そこにマリユスのすべての思いがあった。彼は他のことをいっさい頭に浮かべなかった。彼はただ漠然ばくぜんと感じた、古い上衣は既に着れなくなり、新しい上衣は古くなり、シャツはすり切れ、帽子は破れ、靴くつは痛んでいることを、すなわち自分の生活が摩滅していったことを。そして彼は自ら言った、「死ぬ前にただ彼女に再び会うことができさえするならば!」

 

二 牢獄のうちに芽を出す罪悪

 あの日とらわれた人たちがどうなったか。ブリュジョンとバベの脱走計画はうまくいかなかったが、思わぬ展開へとつながっていく。エポニーヌとアゼルマは放免された。

 

・モンパルナス…「おしゃれ悪魔」。ジャヴェルの手をのがれたのは、見張りをしていたエポニーヌに出会って、仕事よりも娘たちといることを望んだからだった。そして、娘たちをよそに連れて行った。

 

・エポニーヌ…アゼルマと一緒に、ジャヴェルのつまらない腹いせのためにマドロンネット拘禁所に入れられた。十五日後、放免され、マニョンから「ブルジョン→バベ宛の手紙」を渡され、バベの情婦に届けた。

 

・クラクズー…フォルス監獄へ行く途中で姿をくらました。

――クラクズーは一方にごく有能な刑事であり得るほどの悪党だったかも知れなかった。そういう使い分けの親しい関係を暗夜の方面に保ってることは、盗賊の仕事には好都合であり、警察の仕事には便宜である。そういう両端を持する悪漢も世にはずいぶんいる。

 

・ブリュジョン…髪の長い男。予審判事は口を割らせたかったので、ブリュジョンを庭に解放して、常に監視させた。ブリュジョンは、その父もまたフォルス監獄に収監されていた。はじめは茫然とした様子をしていたが、一八三二年二月の末に、仲間三人の名前で、三種の使いをもらって、法外な出費をおこなったので、典獄の注意をひいた。三人(パンテオンのクリュイドニエ/ヴァル・ド・グラースの放免囚徒グロリユー/グルネル市門のバールカロス)は逮捕されたので、奸計は阻止されたと思われた。しかし、「バベ。プリューメ街に仕事がある。庭に鉄門がついている。(ヴァルジャンとコゼットの隠れ家に狙いをつけた)」と書かれたブリュジョンの手紙はバベに渡り、バベの手紙は、サルペートリエール拘禁所の情婦へ、さらにマニョン(ジルノルマン氏の子だと言い張る女中)に渡った。さらにその手紙は、マドロンネット拘禁所から出て来たエポニーヌのもとへ。エポニーヌは、プリューメ街の屋敷へ行き、マリウスが愛するコゼットをかばうため、「とうていだめ」という意味の「ビスケット」をマニョンに手渡した。ブルジョンの計画は失敗に終わったが、別の結果を産んだ。

――読者がゴルボー屋敷でちょっと紹介された後者ブリュジョンは、きわめて狡猾怜悧な快青年であったが、狼狽したような訴えるような様子をしていた。密室に置くよりもシャールマーニュの庭に置いた方が役に立つだろうと思って、予審判事が彼を解放したのは、その狼狽したような様子のためだった。

 

・バベ…パトロン・ミネット四首領のひとり。ブリュジョンから「バベ。プリューメ街に仕事がある。庭に鉄門がついている」という手紙を受け取り、サルペートリエール拘禁所にいる情婦、マニョンを経由して、エポニーヌに偵察させた。

 

・マニョン…二人の子をジルノルマン氏の子だと言って、毎月お金をもらっている。サルペートリエール拘禁所に収容されているバベの情婦の手紙をエポニーヌに仲介する。警察からにらまれているがまだ逮捕されていない。

 

三 マブーフ老人に現れし幽霊

 マリウスは誰のところも訪問しなかったが、ごくまれにマブーフ老人に出会うことがあった。二人とも困窮していた。

――彼らは口もきかずに、ただ悲しげにちょっと頭を下げた。痛ましいことではあるが、困窮のために友誼も薄らぐ時があるものである。以前には親しい仲であったのが、今はただ通りがかりの者に過ぎなくなる。

 

 マブーフ老人は、ある夕方、庭に水をまこうとしたが、力が出ない。不意に、「マブーフのお爺さん、あたしが庭に水をまいてあげましょうか。」と、痩せた娘がやって来て、水をまいてくれた。感謝を伝えると、「あたし悪魔よ。でもそんなことどうでもかまわないわ。」と答え、「マリユスさんの住居を教えて下さい。」と言った。

――マブーフ氏が世の中に知ってるものはただ、自分の書籍と庭と藍だけだった。その三つのものこそ彼にとっては幸福と楽しみと希望との形だった。それだけで彼は生きてゆけた。

 

四 マリユスに現れし幽霊

 マブーフ老人を訪ねた数日後、散歩中のマリウスのもとに、エポニーヌが現れた。事件から二か月が経っていた。エポニーヌは、マリウスをコゼットのところへ連れて行ってくれると言う。マリウスはエポニーヌに五フランを渡そうとするが、「あなたのお金なんか欲しいんじゃないの。」

――不思議にも彼女は、あの時よりいっそう貧しげになりまたいっそう美しくなっていた。同時にできそうもない進歩ではあるが、彼女は実際その二重の進歩をしていた。一つは光輝の方へと一つは貧苦の方へ。

――彼女はある表情をしたが、それはしだいに曇ってきた。「あなたはあたしに会ったのがいやな様子ね。」

――あなたは悲しそうな様子をしてるわね。あたしあなたのうれしそうな様子が見たいのよ。笑うっていうことだけでいいから約束して下さいね。あなたの笑うところが見たいのよ、そして、ああありがたいっていうのを聞きたいのよ。ねえ、マリユスさん、あなたあたしに約束したでしょう、何でも望み通りなものをやるって……。

―― マリユスは腰掛けていた欄干から飛び上がって、夢中になって彼女の手を執った。

「ああそうか。僕を連れてってくれ。知らしてくれ。何でも望みなものを言ってくれ。それはどこだよ?」

「あたしといっしょにいらっしゃい。」と彼女は答えた。「町も番地もよくは知らないのよ。ここのちょうど向こう側よ。でも家はよく知ってるから、連れてってあげるわ。」

 彼女は手を引っ込めた。そして次の言葉ははたで見る者の心を刺し通すだろうと思われるほどの調子で言ったが、喜びに夢中になってるマリユスには少しも感じなかった。

「おお、あなたほんとにうれしそうね!」