トルストイ『戦争と平和』~中盤で投げ出さないために①~

 

 

 アウステルリッツの戦いが終わったあと、ビリービンの手紙を通して説明される「指揮官たちの権力争い」について。

①アウステルリッツの敗戦の責任を取る形で、クトゥーゾフは総司令官を罷免されます。

②そして、クトゥーゾフよりも一世代古い二人の人物が総司令官の座を争い、カメーンスキーが総司令官に選ばれます。カメーンスキーは前世紀の英雄です。カメーンスキーの名前が最初に登場するのは、クトゥーゾフの最初の閲兵の場面です。兵士たちは、カメーンスキーの軍歌を、名前の部分をクトゥーゾフに替えて歌っていました。また、モスクワに帰省したニコライと軍事談義を交わしたこともあります。あとで息子が登場します。カメーンスキーは、総司令官となったものの、自分が皇帝から信頼されていないことがわかり、腹を立ててやめてしまいました。そして、その後しばらくして亡くなります。プロゾローフスキーは、ここにしか登場しません。

③カメーンスキーが辞めたあと、順当に序列のうえから考えれば、ブクスホーデンが総司令官になるはずなのですが、ベニグセンがこれを認めません。退却時に、ブクスホーデンの邪魔をするために橋を焼くという、非常識極まりないことをやってのけます。そのせいで、ブクスホーデンは、フランス軍に捕捉されそうになります。ブクスホーデンは「決闘だ!」と息巻き、ベニグセンはてんかんの仮病で逃げます。一触即発のところ、ベニグセンが総司令官に任命されて、事なきを得ました。ベニグセンは、このあとも常に権力闘争の中心人物として登場します

④1807年のアイラウの戦いで、ベニグセンはナポレオンに勝利します。ただ、この戦いにベニグセンが「勝った」と言っているのは、ベニグセンに近い人とボルコンスキー老公爵のような一部の愛国者たちだけです。戦闘で勝っても、撤退したのはロシア軍なので、作者は敗北したと考えます。ナポレオンも、ベニグセンのことを1807年に何もできなかった無能な男だと言っています。一方、1812年の段階での陸軍大臣は、バルクライ・ド・トリーでした。バグラチオンと混同しないように。基本的に、ドイツ人司令官はロシアでは人気がありません。1812年の戦いでは、ひとまずバルクライとベニグセンという二大ドイツ系の二大巨頭です。

 

 

 1812年の段階での勢力図です。皇帝が前線を離れたあと、指揮官を任されたのは、第五党派のバルクライ・ド・トリーです。第四党派のベニグセンは、これと真っ向から対立します。ベニグセンは、バルクライの監視役となり、何かあれば逐一アレクサンドル1世に告げ口しようとします。第四党派も、同様の動きをします。第二党派のバグラチオンは、バルクライの支配下に入ることを望まず、極力部隊の合流を遅らせようとします。バグラチオンは、第三党派のアラクチェーエフに、バルクライへの痛烈な批判の手紙を送ります。さらに、第一党派も、この指揮系統の混乱に乗じて、言いたい放題です。というように、バルクライの人気のなさは、際立っています。