トルストイ『戦争と平和』人物事典52(395人目)

 

 ★★★・ボルコンスキー老公爵(1-1-22)

 

 

 プロイセン王と呼ばれる大層裕福な人物。元陸軍大将。リューリクの血をひく。モスクワから150キロの「禿山」にこもっている(途中でスモーレンスク付近に変更になった)。パーヴェル1世時代に蟄居を命じられ、新帝の時代に許されても、それっきりそこにこもってしまった。

 絶対的な権力者が、いわゆる老害へと変化していく、典型的な過程を歩んでいく。家族への愛を持ちながら、相手が自分の思いに応えてくれないというイライラを、醜悪な嫌がらせと束縛という形で表現することしかできない。自分が愛されていないと知っているからこそ、居丈高になって束縛せずにはいられない弱さを抱えた、どこにでもいる普通の老人。

 禿山は、男性中心社会のピラミッド。魔王の山。一方、ロストフ家のオトラードノエは、女性的な花園のイメージで、恋の妖精のすむ森。魔王の山で虐げられながら育ったかわいそうなマリヤと、妖精の森で育ったニコライが結婚するのも、この物語でトルストイが描きたい重要な結末のひとつ。だからこそ、老公爵は困った人物として描かれざるを得なかった。

 

 

序盤

 

息子の出征と娘の縁談

 秩序立った生活を好む。娘マリヤに数学を教えるが、すぐに腹を立てて、台無しにしてしまう。のちにマリヤも、アンドレイの息子に対して同じことをするようになる。

 アンドレイが出征のために、妻のリーザを連れて禿山にやって来る。老公爵の厳しさに、リーザは恐怖を感じている。 

 ワシーリー公爵の来訪に際して、マリヤとアナトールを結婚させようとする魂胆なのだと悟ると、悪意のこもった侮蔑の目を向けた。そもそも、ボルコンスキー老公爵は娘なしには生きられない人なので、マリヤを手放したくないのだが、この土地で絶対的な権力者としてふるまってきたため、不快な相手は、自分に害をなすものであると考える、子どものような癖がついてしまっている。

 

 

 「フン…フン…フン」と言いながら、「この私が見抜いていないとでもいうのか、あのろくでなしがブリエンヌばかりに目を奪われていたのを(あの娘は追い出してやらなくては!)」。そして、マリヤを呼びつけ、「あいつはお前を持参金付きで連れて行くついでに、マドモワゼル・ブリエンヌも引っさらっていく魂胆だ。妻になるのはあの女の方で、お前は……」と存分に圧力をかけたうえで、お前の自由だと言う。この直後、ブリエンヌとアナトールが抱き合っているのをマリヤが目撃したことで、結婚はご破算になった。「くだらん、たわけたことを言いおって!」と叫びながら、喜びのあまり娘を抱きしめている。娘を支配することに成功した老人の醜さが、彼の愛を上回っているのだが、文字通り、彼は「お山の大将」なので、意見できる者はだれもいない。

 

 

中盤

 

1806年

 アンドレイの戦死の(誤)報を受けて、2か月たっている。息子を愛していた老公爵は、その死にひどく力を落とすが、マリヤの示すようになったなれなれしい同情も、受け入れがたい。

 老公爵はリーザのお産を心配しているが、リーザにとって老公爵は恐怖でしかない。モスクワからの医者を用意するように頼まれていたが、結局用意できなかった。そのせいかどうかは不明だが、アンドレイは帰ってきたが直後、リーザは息子ニコライを産み、亡くなってしまう。「老人はすでにすべてを知っていた。はじめからドアのすぐわきに立っていて、ドアが開くと何も言わぬまま、老人らしいごつごつした両手で万力のように息子の首をぎゅっとつかむと、子供のように号泣し始めた」。 

 老公爵が、感情を素直に表せるのは、相手が死ぬときと、自分が死ぬときだけだ。また会うのだと思うと、自然と自分を守るための壁を作ってしまう。ニコライの洗礼のとき、代父役の祖父は、抱いた赤子を落とすのをおそれてびくびくしながら、でこぼこしたブリキの洗練盤のまわりをまわった。

 

老人が張り切りすぎると裏目に出る

 ロシア各地で任命された八名の義勇軍司令官の一人となり、がぜん元気が出た。ピエールが訪ねて来たので、「おや! これはうれしい! キスをしてくれ」と上機嫌だった。そして、やる気を出しすぎて、思い通りにならない相手に、苛烈な罰を科すようになる。

 1810年、アンドレイが、ナターシャにプロポーズしたことに大反対する。相手の家の格が劣る、若すぎる、何より一人息子を小娘にゆだねるのは不憫。結婚を1年のばすように言う。

 息子が外国に旅立つと、ひどく衰えた。トルストイ特有の内面表現で、老人は若くなったり衰えたりを繰り返し、若者は美しくなったり醜くなったりを繰り返す。肉体と内面をイコールで表現するものだ。

 

 アレクサンドル1世の治世への人気に陰りがみられ、愛国的な思潮が支配的となったことで、皮肉なことにボルコンスキー老公爵のような古い時代の人間が、モスクワっ子の格別の崇拝の的となったのだった。老公爵は、何度目かの老化を始めた。見栄のため、モスクワで反政府勢力のリーダーになっている。そして、マリヤをいじめるために、ブリエンヌの食事を出す順番を、マリヤよりも先にするようになった。

 

 ナターシャが、期待をこめて老公爵の屋敷を訪ねたとき、老公爵は醜悪な方法で辱める。アンドレイが突き放し、マリヤが敵意を示し、ボルコンスキー一族によって、ナターシャは精神的に追いつめられていった。あとでアフローシモフが抗議に行くが、老公爵にはまったく話が通じない。「反応も何もあるもんか。頭がおかしくなっているからね……こっちの言うことなんて聞きやしないよ。いやはや、何のことはない、二人がかりであの哀れな娘さんをさんざん苦しめただけさ」。ということで、完全な狂人になってしまった。

 

 

娘いじめ

 ストレスがたまると、サディスティックにマリヤを苛む。マリヤをいじめるために、「俺があの女と結婚して何が悪い」などと言いながら、ますますブリエンヌをそばに近づけるようになった。アンドレイからの期限3か月短縮の提案にも、同意しなかった。「きっとニコールシカ(リーザとアンドレイの息子)にもいい継母ができるぞ。あいつに書いてやれ、明日にでも勝手に結婚しろとな。あの娘がニコールシカの継母になるというなら、俺はあのブリエンヌと結婚してやる!……ハッハッハッ、あいつにもちゃんと継母ができるようにな」。

 思い通りにいかない物事に対して、受け入れたりあきらめたりすることができないと、こういう老人になってしまうのだろう。だれも自分の心にふれてくれないということが、相手の悪意に思われるだろう。

終盤 

 

息子の初めての反抗

 1812年7月半ば、アンドレイが立ち寄ったとき、いつものようにマリヤの悪口を言い散らしたが、アンドレイに悪いのはフランス女(マドモワゼル・ブリエンヌ)だと指摘される。老公爵はカッとなってしまい、「出ていけ!」と叫んだ。アンドレイは翌朝出発した。出発後1週間、病気でひきこもっていたが、この間、マドモワゼル・ブリエンヌを近寄らせなくなり、それ以降、「わしにはおまえも、フランス女も用はないのだ」と、マリヤに言うようになった。このころから、規則正しさを重んじる老公爵が、書斎で寝る習慣を捨てて、毎日のように寝床を変えるようになった。

 

現実を認識できなくなる

 8月のはじめに、アンドレイがていねいに父のゆるしを請う手紙を送り、老公爵はやさしい返事を送った。アンドレイの手紙には、戦場がすぐそばに迫ることが書かれていたが、老公爵は理解できず、「ニーメン河よりこちらへは敵はぜったいに来るはずがない」と言い張った(ニーメンは2か月も前に突破されていた)。いくら言われても、1807年の戦争と混同しており、身近に危険が迫っていることを理解できず、『回想録』などというものを書いて、昔の思い出に浸っていた(周りの人間はこれを「遺言書」と呼んでいる)。アルパートゥイチにたくさんの指示を与えているが、戦争のことは念頭にないようで、建築の話ばかりだった。「早く、早くあの時代にもどりたいものだ。いまのこんなことが一刻も早く終わって、わしを安らぎの底に沈めてくれればいいのだが!」。

 

 アルパートゥイチがスモーレンスクから戻ってから、状況を理解したようだったが、アンドレイの忠告に従って避難せず、禿山にとどまって防衛する決意する。民兵を武装させることを命じ、自領に踏みとどまるようにと家人に命じた。そして、父を残して避難することができないでいるマリヤに、さんざん嫌味を並べ立てた。

 老公爵は、総司令官のところに出かけようとして、軍装に威儀を正していたが、卒中におそわれて庭で倒れる。「何人かの男たちが軍服の胸に勲章をつけた小さな老人を抱きかかえるように運んできた」。老公爵は、いままでのきびしい毅然とした表情が、おどおどしたようないじけた表情に変わっていた。

 卒中で右半身がマヒする。3日間そのまま、意識がもどらず、醜い骸のように横たわった。その翌日、意識を取り戻して、「心がいたむ。いつも考えていた! おまえのことを……」などとマリヤに言って、最後に「ありがとうよ……娘や、やさしい……何もかも、よくしてくれたな……赦してくれな……ありがとう!」と言った。その言葉で、マリヤは、父への愛が戻って来たのを感じた。もちろんそれは死を確信して、安心できたということでもある。

 老公爵は亡くなり、亡くなった公爵を見たマリヤは、『ちがう、お父さまはもういないのだ! お父さまはいない、そしてここに、お父様がいたこの同じ場所にいるのは、何か知らない、気味のわるいもの、何か恐ろしい、ぞっとさせて、近づくのをこばむような秘密なのだ!』」と、マリヤは自由を取り戻した。