トルストイ『戦争と平和』人物事典48(376~379人目)

 

 ★★・ベニグセン(1743~1826年)

 

 

権力争いに勝利

 1807年2月7~8日のアイラウの戦いでナポレオンに完勝した(とボルコンスキー老公爵は言ったが、実際には痛み分け)。すねたカメーンスキー元帥が、自分は軍の指揮ができないと、手紙を送った相手。空位の総司令の座をめぐって、ブクスホーデンと争う。ブクスホーデンはベニグセンを攻撃し、ベニグセンは退却時にブクスホーデンを孤立させるために橋を焼き、そのせいでブクスホーデンは敵の攻撃を受けてしまう。ブクスホーデンは決闘だと腹を立て、ベニグセンはてんかんの発作を起こす。一触即発の事態となっていたが、間一髪、ペテルブルグからベニグセンを総司令官に任命する使いが来た。

 

 

またしても権力争い

 1812年、アレクサンドル皇帝が従軍していたときには、その周りにいた決まった職務もない大勢の高官のひとりだった。官位では最高位。ヴィルナ県の大地主で、皇帝の有用な相談役。いつでもバルクライのあとを引き継げる実力者。

 ナポレオンは、「プフールが立案し、アルムフェルトが異を唱え、ベニグセンが検討し、バルクライが実践の使命をあたられながら、いずれに決するか知らず、こうしていたずらに時間が過ぎるばかりだ。ひとりバグラチオンのみが――軍人だ。彼は愚かだが、経験と見る目と、決断力がある」「ほかの連中よりはいくらか軍人らしいが、これとて1807年に何もできなかった無能な男で、アレクサンドル皇帝の胸に恐ろしい思い出をよみがえらせるはずの男」と言った。

 第六党派の中心人物で、バルクライがドリッサまで戦いもせず後退したことを非難している。皇帝のお目付け役として司令部にとどまり、バルクライと対立した。さらに、その後総司令官になったクトゥーゾフとも反目している。

 

ボロジノ

 ボロジノ会戦前に、ピエールを陣地視察に連れて行く。トゥチコフ軍の陣地の前方に高地があるのに兵が配置されていないので、独断で兵を高台に移した。伏兵であることが理解できなかった。

 

モスクワ放棄

 ボロジノ会戦後、ロシア愛を熱烈に押し出して、モスクワ防衛を主張した。作戦会議では、「戦わずしてロシアの聖なる古都を放棄するか、それとも防衛するか?」という問題を提起したが、軍事上の問題に感傷的な表現はふさわしくないと、クトゥーゾフに怒られた。

 また、この会議が開かれた百姓アンドレイの家に住む六歳になる孫娘マーシャにとって、クトゥーゾフは「おじいさん」、ベニグセンは「長しっぽ」だった。心の中では「おじいさん」を応援しながら、二人のけんかを見ていた。おじいさんが、ずるそうな視線を長しっぽに投げて、何か言って相手をつまらせたのを見て、すっかりうれしくなった。

 エルモーロフ、ドーフトゥロフ、ラエフスキイは賛成したが、すでにモスクワが放棄されたことを、わかっていないようだった。クトゥーゾフに痛いところを突かれて、真っ赤になり、ぷりぷりしながら室内を歩き回り始めた。防衛が失敗した場合、クトゥーゾフに失敗を押し付ける魂胆だったのだが、うまくいかなかった。

 

世の中は理不尽

 タルーチノの戦闘では、ベニグセンらが考えていたような全軍団殲滅は果たされず、デニーソフ隊による小規模な戦闘が行われただけだったが、ベニグセンはダイヤと十万ルーブルの賞金を得た。皇帝と私信を交わしている。

 ベニグセンは司令部内で最も力をもっており、クトゥーゾフを避けるようになった。単独で皇帝に報告書を送り、クトゥーゾフに激怒された。クトゥーゾフは、ベニグセンを遠ざけたが、今度は、戦争初期に指揮をとり、クトゥーゾフに遠ざけられていたコンスタンチン・パーヴロヴィチ大公がやって来て、クトゥーゾフに皇帝の不満を伝えた。

 

・ベニグセンの副官(3-1-10)…宴会か仕事で疲れて、たたまれたままの折り畳み寝台に腰かけて居眠りをしていた。

・ペラゲーヤ・ダニーロヴナ⇒メリュコーフ夫人

・ペラゲーユシカ(2-2-13)…しわくちゃのやせた老婆。カリャージンでイワーヌシカと一緒になった巡礼。マリヤのところに施しをもらいに来ていたところに、ピエールとアンドレイが入って来る。大きな霊験があったと言うと、「いや、それはインチキだろう」とピエールに言われた。こんな発言が飛び出すような家で施しを受けることに恥ずかしさを覚えて、出て行こうとしたが、こんなおいしい施しを断念するのが悔やまれるという様子で、ためらっていた。ピエールが謝ったので、落ち着きを取り戻して、長々と神父の話を披露し始めた。

 

・ベリヤール元帥(1-2-12)…タボール橋の三元帥のひとり。この呼び名はビリービン流のジョークであり、実際の名前はベルティエ。