トルストイ『戦争と平和』人物事典40(320人目:前半)
☆☆☆・ピエール・ベズーホフ(1-1-2)
ベズーホフ伯爵の庶子。この物語最大の主人公。中身はほぼトルストイ自身。『戦争と平和』という小説は、ぼくちゃんの空想旅物語&恋愛成就物語である。トルストイ自身の内面を持った男が、さまざまな歴史的な出来事を体験する社会のテストの文章題のような小説でもある。彼にはラッキー属性がついている。
彼に少しでも魅力があれば、この作品はもっと人口に膾炙しただろう。彼に魅力がないのは、モデルとなっているトルストイ自身が、平凡な貴族のおぼっちゃんだからである。目としての役割しか果たさない割に、さかんに内面語りを行うところも、ちぐはぐである。
太って眼鏡をかけた世界的なフリーメイソン。モスクワ一の富と二人のヒロインをゲットする無敵のおでぶちゃん。彼は個人として最高に恵まれているが、ヘリクツをこねてばかりで、何も考え出さず、何も為さなかった。善良、純朴、謙虚、不器用、意志薄弱と紹介されている。まさかこの男が主人公だとは、途中まで思いもよらなかった。
富を手に入れたことで、世間知らずなお殿さまキャラとなっていく。一夜にして莫大な富と無為を手に入れた若者が、その生活のありがたみを理解していく過程を描いた物語だとも言える。
悪党を相手にするときだけ、神のごとき暴力を発揮する。『神曲』に登場するダンテのように、無邪気で受動的な「目」なのだが、ときどきトルストイの内面性が宿り、キャラの崩壊した自分語りを始める。
ピエールは、毒にも薬にもならない善良な愚か者だったが、何より愚かだったのは、自分は知恵があって善良だと自覚していた点だった。知のドン・キホーテ。
ピエールは、とめどなく空想する。一方、マリヤは神を信じ、ニコライはロシアを信じる。ナターシャは地上を愛する。夫と妻が天地をそれぞれ併せ持って、二組の夫婦ができている。ピエールは空想的でありながらも現実を愛し、ニコライは現実的でありながらも気高さを胸に行動していく。
冒頭
就職活動中
父の紹介状をもらって、親戚のワシーリー公爵の家にこの1か月滞在している。近衛騎兵になるのか、外交官になるのか、身の振り方を決めるために、ペテルブルグにやって来たが、どちらも気が進まない。「イギリスとオーストリアに加担して世界一偉大な人物と戦うなんて……よくないことですよ」。そのまま3か月たっている。
社交界デビュー
社交界へは本日がデビュー。10年ぶりにパリから帰って来た(現在20歳)。アンナ・パーヴロヴナの夜会に参加し、ペテルブルグの知識人のすべてがここに集まっていることに心ときめかせ、おもちゃ屋に入った子供のように目移りしていた。若者らしく、自分の意見を表明するチャンスを待っていた。友人のアンドレイ・ボルコンスキー公爵が入って来たのでうれしい。アンギャン公の処刑は、「国家にとっての必要事だったのです。僕はナポレオンがあの行為の責任を、恐れることなくわが身一つに引き受けたことにこそ、まさに精神の偉大さを見出します」と主張して、イッポリート公爵の賛同を得た。王党派のモルトマール子爵は肩をすくめた。社会契約論を主張するが、「笑顔が浮かぶとたちまちに、まじめな、いくぶん気難しそうにさえ見える表情が消え去り、別の子供っぽい、人のよさそうな愚かしくさえ見える、まるで許しを請うているような表情が出現する」。モルトマール子爵も、このジャコバン派が、決して口ほどに危険な人物ではないことがはっきりわかった。
アンドレイ邸で
アンドレイ公爵の家にお邪魔したあと、「僕には変に聞こえますよ。あなたのような方が、ご自分を無能呼ばわりし、自分の人生を損なわれた人生だなんて言うのは。あなたにはまだ大きな未来があるじゃないですか」と励ましている。アナトールの放埓な暮らしに混じるべきではないと、アンドレイ公爵に忠告され、「呼ばれても行かない」と約束するが、その直後に行く。
アナトール邸で
ドーロホフの賭けを恐る恐る見ていたが、見事に成功させると、「諸君! 誰か僕と賭けをしないか! 僕も同じことをするから」と叫んだ。しかし、結局、アナトールに丸め込まれてしまった。この場面でピエールのやったことは、「おい、力持ち、やってみたまえ」と声をかけられて、窓枠を手バキッと折ったことと、「彼の力は相当なもので、近寄ってくる者を遠くまで弾き飛ばしてしまう」ことだった。彼には意志の力がないかわりに、肉体の力がある……。その後、熊を連れて女芸人の館に連れ込み、警察沙汰になると、署長を捕まえて熊と背中合わせに縛り付け、そのまま熊を川に放した。これによってペテルブルグ追放になり、モスクワに戻って来た。
ボリスとの出会い
ベズーホフ伯爵のお気に入りだったため、庶子でありながら、遺産をすべて引き継ぐのではないかと、噂になっている。ペテルブルグを追放されて、モスクワのベズーホフ邸に戻るが、モーマントフ三姉妹に冷たくされ、部屋に引きこもる。そこへロストフ伯爵からの晩餐会への招待をひっさげ、ボリスが現れた。率直な物言いと意志の強さが気に入り、「あなたは素晴らしい人ですね」と認めた。「青年期の初め、とりわけ孤独に暮らしている場合にありがちなことだが、彼は相手の若者に対して特に理由もなく優しい気持ちを覚え、必ず友人になろうと自らに誓った」。
晩餐会では、たくさん食べた。
遺産相続に成功!
その後、ドルベツコイ夫人に連れまわされ、ベズーホフ伯爵の遺産を全部もらうことができた。正式の息子に認定され、ベズーホフ伯爵となって、ロシア最大の資産の所有者となった。ピエールは、幸福が切実に近づいている感覚を味わっていた。「彼は普段から心の奥底で、自分が実際にとても優しく賢い人間だと思っていた(実際は狂暴なおバカさん)」ので、おべんちゃらを真に受けてしまうのだった。「皆に好かれていることがごく自然なことに感じられたし、もしも誰かが自分を嫌っているとすれば、それこそいかにも不自然なことと思えた」。
結婚!
ピエールをだれよりも強力に操っていたのは、ワシーリー公爵だった。彼の娘エレーヌとの婚約が持ち上がった。ワシーリー一族と血縁になるのはよくないと思ったり、「不細工な顔をしながら、ヘレネーをわがものにする二枚目パリス気取りでいることが、決まりが悪かった」などと思ったりしつつ、エレーヌに「肉体の魅了」を感じて、自然にニマニマしてしまう。
「頼みにしてきた自分の決断力、そして実際に自分に備わっていた決断力が、この件に限っては失われていることに気づいてゾッとした」。そもそも「決断力」など、これまでもこれからも一切持ち合わせていないのがピエールという男だ。「自分がまったくやましくないときだけ力を発揮できる」のだが、知恵がないので、発揮できる力は暴力だけだ。
周りがお膳立てしてくれた状況の中で、エレーヌがささっと強引に頭を動かしてピエールの唇をとらえ、めでたくゴールイン。「ジュヴゼ~ム!」。
決闘だ!
イギリスクラブでのバグラチオン歓迎パーティーに出席。妻の指示で髪をのばし、メガネをやめた。しょんぼりして覇気がない。でも、いつものようにがつがつとたくさん食べ、飲んでいる。帰還したドーロホフを昔のなじみで家に住まわせたが、他人のものを奪うのが三度の飯より好きなドーロホフは、エレーヌから片時も離れない。モスクワの令嬢エカテリーナからも二人の関係をほのめかされたり、匿名の手紙が届いたりもしている。面倒を見て助けてもらった人の妻を奪う背信行為は、ドーロホフにとってスパイスにしかならない。向かいに座るドーロホフを見ながら、「そうだ、彼は決闘マニアだ」と思ったそうだ。ドーロホフは、あざ笑うような目でピエールを見ている。皇帝のための万歳三唱のときに、ピエールがぼんやりしているので、ニコライに「何ですか、あなたは?」と怒られた。その後、ささいなきっかけでドーロホフに決闘を申し込む。
ネスヴィツキーがピエールの介添え人となった。ネスヴィツキーに謝れと言われ、だれが謝罪なんかと言って、決闘が始まる。
「あんなにもあっけなく始まってしまったことが、もはや何をもってしても押しとどめられぬ流れとなり、人間の意志にかかわりなくひとりでに進行していって、ついには行きつくところまでいかざるを得ないのは明らかだった」。トルストイの戦争観が語られる。
直前にネスヴィツキーに引き金の引き方を聞いた。言われた通りを引くと、ドーロホフが左の脇腹を抑えて、ピストルを握った片手をだらりと下げていたそうだ。うわーびっくりだ。ドーロホフは突っ伏してむさぼるように雪を食らったらしい。ドーロホフが態勢を立て直し、十歩の距離から撃つと、外れたらしい。ピエールは憐れみと悔恨の混じった静かな笑みという完璧な表情を浮かべている。ドーロホフは突っ伏してゲームオーバー。ピエールは「愚劣だ」などと言いながら、森の中に消えて行った。
過保護なトルストイ
家に帰って、自問自答する。「僕は情夫を殺した」「あんな女と結婚なんかしたからだ」「一体僕の何が悪かっただろう?」「愛してもいないくせにあの女と結婚して、自分をも相手をも欺いたことだ」などと、たくさんの言い訳を考えている。ピエールに何か不都合があったときには、トルストイがすぐさましゃしゃり出てきて、「ピエールは軟弱な性格に見えながら、自分の悲しみを打ち明ける相手を求めようとしないタイプの人間だった。彼はひたすらに自分一人の胸で、己の悲しみをあれこれ分析していた」と、過保護に弁護してくれる。
しかし、たいした結論は出なかった。彼がひとりで決意したことは、物語の最後まで何ひとつ実行されることはない。たとえどれほど富を手に入れても、どんなに力持ちであっても、それがすぐさま個人に行動をあたえる唯一の原因とはなりえない。ピエールは、「Aだからと言ってBになるとは限らない」というように、因果を結ぶ一本線を裏切り続ける。
ピエールの狂気
妻から逃げてペテルブルグへ行くことに決めたが、エレーヌがやって来て、「これはまたどういうことなの? ねえ、いったい何ということをしてくれたの?」と、まくしたてる。ピエールが「別れよう」と言うと、「別れるっていうなら、かまわないわ、ただ私に財産をよこすならね」と言い返す。
ピエールは「貴様を殺してやる!」と叫んで妻にとびかかり、思いがけない怪力でテーブルの上にあった大理石盤を持ち上げ、頭上に振りかざした。「ピエールの父親の血があらわになった瞬間だった」「狂乱の歓びと快感を味わっていた」そうだ。結局、財産の半分強をエレーヌに渡して、ペテルブルグへと去って行った。
バズデーエフとの出会い
ペテルブルグ行きの馬車で、あれこれ自問自答しているが、「死ねばすべて終わる。死ねばすべてが分かる、あるいは問うこともなくなる」という陳腐な答えしか出てこない。自分の内部も周囲も嫌悪すべきものばかりに思われた。
フリーメイソンの老人が急に乗って来て、「人生を変えて、自分を浄化すべきですな」と言われる。そして、神を信じることになり、フリーメイソンに入ることにする。
ピエールは、自分を悪い人間だと思っていない堕落した若者のひとりである。アナトールもエレーヌもナターシャもアンドレイも、みんな自分が悪いとは思ってはいない。それは、戦争の当事者たちも同じである。「どうか僕がそんなに悪い人間だと思わないでください。僕だって、あなたがこうあるべしと思われるような人物になりたいと、心から願ってきたのです。ただそんな僕に力を貸してくれるような人はだれ一人、一度として現れませんでした」と人のせいにした。もちろん出会った後も何も変わらなかった。
フリーメイソン入会!
結社で奇怪な入会儀式を受けた。フリーメイソンの三つの目的のうち、人類の矯正に共感を覚えたそうで、自己の浄化と矯正には興味を持たなかった。もう完全に立ち直って、禅を目指す準備ができている実感があったからだそうだ。頭のハエも追えない男が、徹底的に自分と向き合うことのできない愚か者だ。「あなたが誰よりも尊敬する女性が現れたら、これを与えなさい」と言って、女物の手袋をもらった。
ワシーリー公爵を追い払う
翌日、フリーメイソンの正方形の意味を突き止めようと、付け焼刃ではどうにもなりそうにないことに、取り組んでいる。するとワシーリー伯爵が入って来る。「モスクワで何をしてくれたんだね?」「君のおかげで娘と私が世間から、さらには宮廷から、どんな目で見られているかを」と言って、エレーヌが皇太后のお気に入りであることをにおわせ、もう一度やり直すようにうながす。
「これまでのピエールは唯々諾々と従うことに慣れて来た」が、「さあ、お帰りください」と、父親をほうふつとさせる凶暴な表情で言って、帰らせた。
しかし、この行為はフリーメイソン的にはNGだったことが、あとで明らかになる。
社交界では、花婿候補として適齢期の娘を持つ母親たちにとって何のメリットもなくなったため、評判がた落ちる(のちに、なぜかちやほやされている設定に変更される)。決闘事件の件も、彼一人が悪者扱いされたらしい。
中盤
放埓な田舎暮らし
キエフの所領で、農奴解放を行おうとするが、ピエールは実務に向かない。総管理人の前で、実務をしているふりをしていた。そして、場所を変えただけで、以前とまったく同じ放埓な生活を行っている。フリーメイソンの使命である道徳的生活は、まったく果たされていないのだった。総支配人は、この旦那を感動させて煙に巻いてやるために、各地で小さく宗教的な歓迎会を行わせた。ピエールは心から満足した。しかし、村の住民の十人のうち九人がひどい窮乏状態にあり、賦役時間を減らした結果、家で重労働をするはめになったり、年貢を減らした分だけ賦役が増えていることには、気づかなかった。博愛的な気分に有頂天になり、フリーメイソンに手紙を送っている。「なんと簡単に、なんと小さな努力で、こんなにも大きな善を施すことができるものだろうか」。
アンドレイと再会
帰りに、アンドレイの所領に立ち寄る。アンドレイは、生気がなく思いつめた表情をしている。アンドレイは、ピエールがやったことは、「自分が正不正にかかわらず処罰する権限を持っていることへのやましさを胸にため込み、そのやましさを押し殺そうとして、そのためにすさんでいく人間」にとって必要なことだが、農民のために必要なことではないと、皮肉なことを言った。しかし、ピエールが、アンドレイに説法をおこなったことで、アンドレイは、内面世界での「新しい生活」を始めることにつながったそうだ。しかし、実際のところ、農奴解放に成功したのはアンドレイの方だったし、アンドレイの内面が変化することもなかった。これも作者の皮肉だろうか。
何かを究めた!
1808年、領地巡察からペテルブルグに戻って、ペテルブルグ・フリーメイソンのリーダー格となった。金は出すが、「昔のままの享楽的で放埓な生活をつづけていた」ので、フリーメイソンという地盤は、実際には有名無実だった。ピエールは、外国へ行き最高の奥義を窮めてペテルブルグに戻ってきた。具体的なことはまったくわからない。「窮めた」と書かれているだけだ。ピエールには、いつでもレッテルしかない。
「善良だ」「好かれている」というふうに、ピエールには、作者によって何の実体もともなわないレッテルを貼られている。世間が作り出したナポレオン像は虚像であるという作者の「思想」を、作者が作り出したピエール像にも適用すべきなのだろうか。
演説失敗!
ピエールは、フリーメイソンの大会で、「行動する必要がある」「現今の政治制度は大きな障害になる」と演説したが、そこからイルミナティの危険思想を読み取った聴衆に、冷たい反応を示される。「いかなる真実も二人の人間に同様に解釈されることはないという、人間の知性の無限の多様性に驚嘆した」というピエールの内面の言葉は、寄生したトルストイによるものなので、ピエールから遊離したこざかしいものとなっている。で、ピエールの提案は、闘争心に支配されているということで不採用になる。
バズデーエフの助言
その後、鬱状態に。バズデーエフに会いにモスクワに行き、「慢心が高じて道に迷ったとき、われわれは自らの穢れゆえに享受する資格を持たない神秘に手を出そうとしたり、醜悪と堕落の権化にほかならぬ身でありながら、人類の矯正に取り組もうとする」と指摘される。また、ペテルブルグでは、補佐的なポジションにとどまるようにと、忠告を受ける。妻に対しても許すべきだとの考えを示され、新生の歓びを味わっている。
しかし、この新生の喜びは、ピエールと会ったアンドレイが感じたものと同じく、ピエールの行動に何の影響も及ぼさなかった。二人を動かすことができたのは、ナターシャとの恋だけである。
嫉妬
妻のサロンが親ナポレオン派の中心的な地位を占めて、「美貌に劣らぬ知性を備えた女性」との世評を勝ち取ったことに対しては、「妻がすこぶるつきの愚か者であることを知っている」ので、「空恐ろしいような、奇妙な気持ちになった」。そして、ピエール自身は「ぼんやりした変人、浮世離れしたお殿様」として、エレーヌの引き立て役を演じることになる。
一方、エレーヌのお気に入りのボリスが、3年前のドーロホフと同じことをくり返すのではないかと胸騒ぎがしている。「妻の客間にボリスがいるという事実が(彼はほとんど常に入り浸っているのだが)、ピエールに生理的に作用して、彼の手足をがんじがらめにして、無意識で自由な動きをできなくさせてしまう」。「まったく不思議な嫌悪感だ、以前はむしろ大好きな相手だったのに」。
ピエロの日記
日記をつけるようになった。ボリスが、コネを作るためにフリーメイソンに入って来たので、「剣で本当にそのはだけた胸を突き刺してやりたいと思った」。わが結社の学問においては、「事物の三つの根源は、硫黄、水銀、塩である」と書いているが、実は何もわかっていないはずだ。聖書を読んでも何も感じない日々が続き、自分は憎しみや怒りにとらわれている。「原因は私の自尊心だ。私は自分がこの相手より上だと意識しているので、そのせいで相手よりはるかに劣った振る舞いをしてしまう」。夢の中でバズデーエフが登場し、ダブルベッドの上で、「彼に甘えたがっているように添い寝」している。自分は怠けることが大好きだと答えると、彼は妻をかわいがってやれと言った。「自分の淫蕩のために身を滅ぼしてしまう」気がして心配になるが、ピエールには身を滅ぼすことなどできるはずがない。