トルストイ『戦争と平和』人物事典39(315~319人目)

 

 ★★・バルクライ・ド・トリー(3-1-6)

 

突然現れた権力者

 1812年当時の陸軍大臣。反ベニグセン派。バグラチオンに嫌われる。ナポレオンは、「バルクライが彼らより有能だということだが、彼の緒戦の動きから見て、余はそうは思わぬ」と評した。「プフールが立案し、アルムフェルトが異を唱え、ベニグセンが検討し、バルクライが実践の使命をあたられながら、いずれに決するか知らず、こうしていたずらに時間が過ぎるばかりだ。ひとりバグラチオンのみが――軍人だ。彼は愚かだが、経験と見る目と、決断力がある」と言った。

 

人望がない……

 1812年に、アレクサンドル皇帝が従軍していたときには、第一軍を率いていた。第五党派の中心で、この党派は、人間的にも司令官としても、バルクライに心酔している人たちだった。彼らは、ドリッサまで後退できたのはバルクライのおかげだと主張した。

 バルクライが、最善の方法で軍を指揮しようとしたのは、偉大な司令官の栄誉を勝ち得たかったからである。しかし、人望のないドイツ人将校だったので、その指揮下に入る予定だったバグラチオンが、なるべく合流を避けようとした。パウルーチの進言によって、プフールの計画が破棄され、バルクライにゆだねられたが、皇帝の信頼を得るにはいたらなかった。皇帝は、軍司令官の統帥を妨げないためにペテルブルグに去ったが、ベニグセンなどの「皇帝のお目付け役」のせいで、自由が締め付けられ、より慎重にならざるを得なかった。そして、慎重派と会戦派が対立したため、ベニグセンとバグラチオン相手に公然たる闘争に入った。

 

スモーレンスク放棄

 バルクライは、スモーレンスク市が危険に脅かされる公算が小さいという文書を県知事に送っていたが、思いがけずフランス軍に攻められ、すぐにスモーレンスクを放棄した。しぶしぶ合流して戦っていたバグラチオンも、この後退を痛烈に非難した。ティモーヒンは、略奪を禁じて後退するのは、敵のために残してやるものだと批判した(クトゥーゾフはこのあたりに寛大)。アンドレイは、「彼は理解できなかったのだよ、スモーレンスクでわれわれがはじめてロシアの国土のために戦ったことを、軍にはぼくがかつて見たこともないような旺盛な式があったことを」「彼は裏切りを考えたわけじゃない、すべてをできるかぎりよくやりとげようと努めて、あまりにも多くを考えすぎたのだが、それだから彼は役に立たんのだよ」と言った。

 

ボロジノ

 バルクライに代わって、クトゥーゾフが総司令官になる。ボロジノでは、左翼の状況から、わが軍の敗戦だと断じて、クトゥーゾフに報告を送ったが、理解されなかった。ボロジノ後の作戦会議では、最上席に座った。前日から熱病にかかり、青白い病的な顔をしている。フィーリ付近での戦闘は不可能であると述べ、ベニグセンの意見に異を唱えた。その後、クラースナヤ・パフラで、ベニグセンとバルクライは、攻撃を進言したが、採用されず、腹を立てて辞任した。

 

・ハルデンベルク(1-1-1)…プロイセン外相、のち宰相。世界史で習う人。

・バンダルチュク(1-2-19)…パヴログラード軽騎兵連隊の兵士。ニコライなじみの兵士。ニコライとぶつかりそうになった。

・ハンドリコフ(2-2-8)…コルチェヴォの長官。補充兵や食料を送らないので、何をしているのかわからんと、ボルコンスキー老侯爵に怒られた。

・B公爵(2-3-7)…フリーメイソン。実生活ではちっぽけで弱虫な人間。