トルストイ『戦争と平和』人物事典37(308人目)

 

 ☆☆・バグラチオン公爵(1765~1812年) (1-2-8)

 

 

 ナポレオンが唯一認める武勇にすぐれた将軍。東洋風の小柄で引き締まった顔立ち。まだ老齢には届かない。プライドも高く、へっぽこ上司とは折り合いが悪い。

 

アウステルリッツ

 

シェーングラーベン

 後衛軍司令官。クトゥーゾフ将軍の右腕。別ルートから、クトゥーゾフ軍の退路を断とうとするナポレオンに対抗するため、少数の兵を率いて、クレムスからツナイムへと先行することになる。「では公爵、さらばだ。キリストのご加護がありますよう。立派な武勲を祈って祝福しよう」とクトゥーゾフは目に涙を浮かべ、左手でバグラチオンの体を引き寄せ、十字を切った。アンドレイがバグラチオンの部隊に残りたいと直談判する(聞き届けられた)と、クトゥーゾフは、「バグラチオンの部隊にしても、もしも明日十分の一が生きて戻ってくれれば、私は神に感謝するだろう」と言った。

 

 

 腹を空かせた裸足同然の兵(ロシア軍には長靴が支給されていない)を率いて、3分の1の落伍兵を出しながら、45kmを走破して、ホラブルンに到着する。ウイーンからツナイムへと進軍していたミュラーは、バグラチオン部隊と遭遇し、この部隊をクトゥーゾフの本営と勘違いする。ミュラーは、これを確実に全滅させるべく、本隊の到着を待つために、偽の和平の提案を行った。バグラチオン隊にとって、これは好都合だった。

 アンドレイについて、「もしもこの男がよくいる司令部付きの伊達男で、後々十字勲章をもらうために回されてきたのだったら、後衛にいても受賞できるだろう。だが、もしも私と一緒にいたいのなら、好きにさせよう……もし勇敢な将校なら役に立つだろう」と思っている。

 

 

 11月4日、シェングラーベンの戦い。バグラチオンのそばで指揮を見ていたアンドレイは、事態が偶然進行しているにもかかわらず、その「絶妙の演技」のおかげで、バグラチオンの意志のように見えること、おかげで、兵士が落ち着きを取り戻したり、活気づいたりしていることに気づかされた。どんな名将であっても、意のままに兵を自在に動かしているわけではない。バグラチオンは、二個大隊に場所を譲るように命じただけで、あとは「健闘を祈るぞ、諸君!」と言って、ひたすら黙って隊列の前を歩いていた。

 

 

 総崩れになった左翼にジェルコーフを伝令に送ったが、ジェルコーフは打ち勝ちがたい恐怖に襲われ、伝令の任務を果たすことができなかった。また、左翼では、ニコライのパヴログラード軽騎兵師団と、ドーロホフのポドリクス狙撃兵師団の指揮官同士が、それぞれ指揮権争いをくり広げていたため、フランス軍が退路を断ってしまった。また、退却命令が出ているのに、まだ中央砲兵隊(トゥーシン隊)が退却していないことに気づいて、アンドレイを派遣している。戦いが終わったあと、二門の大砲をなぜ放棄したのか、援護の下で撤収できたのではないかと、トゥーシンを非難した。アンドレイは、「私が砲台についたときには、3分の2の兵士と馬が砲弾に倒れ、二門の砲が破壊され、援護は全くない状況でした」と報告し、何よりも今日の勝利はトゥーシンのおかげだったと言った。

 

 

アウステルリッツ

 アウステルリッツ前日の全軍団長の作戦会議への参加を断った。ともに右翼を担当しているドルゴルーコフ(主戦派)との相性が悪い。敵から喚声が聞こえたので、ニコライを偵察に送る。会戦当日、すぐに中央部隊は壊滅したが、右翼のバグラチオン隊はまだ戦闘に入っていなかった。バグラチオンは、ドルゴルーコフの戦闘開始の要請に応じる気はなく、かといって責任を負いたくもなかったので、総司令部に使者を派遣して意向を問うことにした。期待に胸を躍らせているニコライの顔が目に入ったので、ニコライを使者に送ることになった。その後、潰走する他の部隊をしり目に、バグラチオン隊だけが、見事に隊列を整えて敵を一昼夜にわたって退けたそうだが、そのあたりの描写は省略されている。

 

 

中盤

 

バグラチオン歓迎パーティー

 戦後、英雄視されることになる。「バグラチオンがいなかったら、彼を作り出さなければならなかったところだ」と、言われている。1806年の春、アウステルリッツの英雄として、イギリスクラブでのバグラチオン歓迎パーティーに出席する。直前に髪と頬髯を刈ったので、かえってオトコマエが下がったらしい。無邪気なお祭り気分が顔に漂って、滑稽な表情に。大きな皿に自分のことをうたった詩を置かれて差し出されたので、びっくりした様子で、助けを求めるようにあたりをぐるりと見まわしたが、周囲の目はすべて、彼が筋書きに従うことを要求した。「自分がこの人々の権力化に置かれていることを悟ったバグラチオンは、その皿を決然と両手で受け取った」。その後、詩の朗読は中断され、ディナーになった。

 

ボロジノ

 

ひとりバグラチオンのみが軍人だ

 1812年、アレクサンドル皇帝が従軍していたときは、第二軍を率いていた。自分よりも身分の低いバルクライの指揮下に入りたくないので、なかなか合流しようとしなかった。プフールの軍学ドイツ派閥と対立した。ナポレオンは、「プフールが立案し、アルムフェルトが異を唱え、ベニグセンが検討し、バルクライが実践の使命をあたられながら、いずれに決するか知らず、こうしていたずらに時間が過ぎるばかりだ。ひとりバグラチオンのみが――軍人だ。彼は愚かだが、経験と見る目と、決断力がある」と言った。勇敢な行動の代表者であり、民族主義の代表者でもある。同じ派閥にはエルモーロフが属していた。

 

スモーレンスク

 スモーレンスクで合流した後も、バルクライと対立した。8月5日のスモーレンスク放棄に対して、8月7日にアラクチェーエフ宛に手紙を書いて、不満をもらしている。自分は35時間以上もちこたえたが、バルクライは14時間しか踏みとどまらなかった。あと2日踏みとどまれば、人馬に飲ませる水がなくなり、ナポレオンは撤退したはずだった。「彼は後退せぬと私に約束しておきながら、夜半に撤退するという命令を、突然わたくしに送りつけてきたのです。このようなことでは戦争はできません」「指揮は一人でとるべきもので、二人でとるべきものではありません。あなたの大臣は、大臣の仕事をさせたらりっぱな人物かもしれませんが、将軍としては、無能どころか、有害です、しかもそのような男にわが祖国の運命が委ねられているのです……わたくしは、嘘いつわりではなく、憤怒のあまり気が狂いそうです」。

 そして、講和をしないでほしいということ、義勇軍を用意してほしいということ、ヴォリツォーゲンが全軍に疑惑を与えているということなどを、皇帝に読まれることを念頭に置きつつ記した。

 

ボロジノ

 ボロジノで戦死。クトゥーゾフは、おお、と思わず口に出して頭を振った。