トルストイ『戦争と平和』人物事典33(282人目)

 

 ☆☆☆・ナポレオン・ボナパルト(1-1-4)

 

 

 あのナポレオン1世。『戦争と平和』は、ナポレオンが1805年のアウステルリッツ会戦で勝利し、1812年のロシア遠征に失敗するまでを、ロシアの側から描いている。トルストイは、「彼の英雄性が戦争を勝利に導いた」というような「個を中心とした戦争観」を否定している。だから、二人の総司令官は、たがいに望まない進軍と戦闘を行い、意図せぬ指令を出さざるを得ない苦悩を抱えている人物として描かれる。

 

アウステルリッツ

 

 

1805年:ナポレオン軍10万:ウィーンに向けて進軍開始

 

10月10日前後

ウルム(ドイツ/ウィーンの西400km) 

…オーストリアのマック将軍を破り、全面降伏させる。

   ↓    

ブラウナウ(ドイツ・オーストリア国境/ウィーンの西200km/イン川流域/クトゥーゾフが最初に閲兵式を行った地)

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ランバッハ(オーストリア/ウィーンの西170km)…ウィーンに向けて橋を壊しつつ退却するクトゥーゾフ軍と小規模戦闘

   ↓

10月23日   

エンス(オーストリア/ウィーンの西150km/イン川流域/ニコライ初陣)

…退却するクトゥーゾフ軍と小規模戦闘

   ↓         

アムシュテッテン(オーストリア/ウィーンの西120km)

 …退却するクトゥーゾフ軍と小規模戦闘

   ↓        

 メルク(オーストリア:ウィーンの西100km) 

…退却するクトゥーゾフ軍と小規模戦闘

   ↓

10月30日      

クレムス(オーストリア:ウィーンの北西50km/ブルノの南西100km/ドナウ川流域/アンドレイ初陣)

…2週間の撤退ののち、10月28日に、後退を続けていたロシア軍はクレムスではじめて停止し、30日にフランスのモルチエ師団を撃破した。この戦闘では、勝利したロシア軍の側により大きな被害を出した。

 

11月1日         

ウィーン陥落(オーストリア首都:ブルノの南100km)

…三元帥の策略によって、ウィーンを無血開城させる。ナポレオンはシェーンブルン宮殿に入り、ここから指示を出す。ミュラー元帥が、ブルノ南西50kmのツナイムへ強行軍をおこなうが、ここを先に取られてしまうと、ブルノへの退路を断たれるクトゥーゾフは、バグラチオン4000を先遣隊として送り、ウィーンとツナイムの中間点であるシェングラーベンに先に到着する。そして、クトゥーゾフ軍が到着するまでの1日半の時間稼ぎをしようとした。一方、遅れて到着したミュラーは、すでにクトゥーゾフの本隊がそろっていると勘違いし、十分な態勢を整えるために、偽りの和平の使者を送る。これがかえってクトゥーゾフ側の思惑と一致したため、逆に相手に行軍の時間を稼がれてしまう。ナポレオンは、ミュラーの作戦がまずいことを見破り、「貴下には筆舌に尽くしがたいほどの不満を覚える」と手紙を送る。そして、お前は前衛の指揮だけをしろ、自分の命令なしに休戦協定を行う権利などない!と、どやしつけたのだった。ミュラーは、びっくりして攻撃を開始した。

 

11月4日     

シェングラーベンの戦い…戦いはフランス側の勝利だが、ロシア側はクトゥーゾフの狙い通り、退路を断たれることなく、本隊との合流を果たすことができた。バグラチオン指揮下のトゥーシン砲兵部隊が活躍する。

 

11月5日   

フランス軍は追撃を行わなかったので、バグラチオン部隊の残兵は、この日、クトゥーゾフの部隊に合流した。そして、11月13日、ブルノ(オーストリアの総司令部がある)の北東50kmのオリュミッツで両皇帝(アレクサンドル1世&フランツ皇帝)が閲兵式を行う。

 

11月16日  

ヴィシャウ会戦(ブルノの北東20km、ウィーンの北120km、オルミュッツの南西30km)…ロシアのドルゴルーコフが勝利を収める。そして、大いに油断する。アレクサンドル皇帝、ヴィシャウにとどまる。

 

11月17日  

軍使としてナポレオンの副官サヴァリが、ヴィシャウのアレクサンドル1世のもとに送られる。ドルゴルーコフがナポレオンとの交渉に赴く。その後、両軍の動きが活発になる。

 

11月20日  

アウステルリッツ会戦(ブルノの東10km、ウィーンの北120km、ヴィシャウの南西10km) 

…開戦直前、ナポレオンみずから各部隊を巡回して、兵士を鼓舞する。即位1周年を迎えるこの日、ナポレオンはロシア軍の想定よりも、はるかに至近距離に陣を構え、迅速に敵の総司令部の置かれているプラッツェン高地を攻撃し、そこに砲台を据えて、前後からロシア軍を挟撃し、勝利をおさめた。戦場に残された戦死者や負傷者を視察し、「あっぱれな者たちだ!」と言った。軍旗を守って倒れているアンドレイに、「ほう、立派な最期だ」と言ったが、「おや!生きている。この若者を収容して、包帯所に連れていけ」と命じた。その後、ナポレオンは、捕虜たちにやさしく声をかけている。

 

1806年    

ナポレオンは、着々と勝利を重ね、ロシアへと近づきつつあった。その一方で、プロイセンに対しては、ポツダム入城を果たしている。

 

1808年9月 

 エアフルトでアレクサンドル1世と会見。オーストリアがフランスを攻撃した際に、ロシアがオーストリアに宣戦するという保証をとりつける。

 

1809年    

ナポレオンとアレクサンドルの親密ぶりがさらに増して、ナポレオンがオーストリアに宣戦布告すると、ロシア軍もナポレオンを援護し、かつての同盟者であるオーストリアに対抗した。

 

ロシア遠征

 

1812年    

大陸封鎖令の不履行などを理由として、二人の皇帝の間に亀裂が入る。

 

1812年5月29日 

 ドレスデンを出発。皇后マリヤ・ルイズをやさしく抱きしめた。アレクサンドル皇帝に対しては、「わが兄事する陛下と呼びかけ、戦争を望まないことを衷心から訴えたが、進軍をやめることはなかった。

 

6月12日 ニーメン河につくと、ポーランドの軍服に着替えて、渡河地点を視察した。

 

6月13日 贈られたアラブ馬に乗って、ニーメン河に架かる橋の一つに向かった。「彼はたえず熱狂的な歓呼の叫びに耳を聾されていたが、彼に対する自分たちの愛をこの喚声で表明することを兵士たちに禁じることもできないので、やむなくがまんしているらしく見えた。いたるところで彼につきまとう喚声は、彼を苦しめ、軍に合流したときから彼をとらえていた作戦に関する考察から彼をひきはなした」。

 ナポレオンにいいところを見せようとして、わざわざ急流を渡って軽騎兵連隊40名ほどを溺死させ、かろうじて向こう岸にたどりついて、万歳を絶叫した隊長がいた。ナポレオンは、彼をレジオン・ドヌール部隊に配属した。うるさいよとは言えないし、むだなことをするなとは言えない。立場にふさわしくあろうとして、人は行動する。

 

6月17日 アレクサンドルの親書を持ってきたバラショフを、上機嫌で迎える。わざわざ、元アレクサンドル帝の大本営のあったヴィルナの同じ建物で、使者と応対するという趣向。

 ナポレオンは、「まるまるとした小柄な身体全体が、安楽な暮らしをしている四十男のもつ押し出しのりっぱな、あたりをはらうような威風をそなえていた」。そして、「自分の心に生じたことだけが、彼にとって興味の対象であることは、明らかであった。彼の外にあるものはいっさい、彼にとって意味をもたなかった。なぜなら、世界中のすべてが、ただ彼の意志にのみ従属していると、彼には思われたからである。」。

 自分の外の世界に興味を持たないのは、ボルコンスキー老公爵の執事アルパートゥイチと同じである。自分の意志に従属しようと、他人の意志に従属しようと、世界への無関心は同じこと。

 ナポレオンは、「余は戦争を望まないし、望んだこともない」と言う。しかし、アレクサンドル皇帝が条件としている、「撤退」は受け入れられない。バラショフを相手に、自分の正しさを自分自身に証明するという、ただそれだけのために、何が何でもしゃべりまくっていた。「余はすべてを心得ておる、そちらの部隊の数も、わが軍のそれのように正確に知っておるのだ」「なぜアレクサンドル皇帝は軍に対する指揮をとったのか? それが何になるのだ? 戦争は余の専門だ。彼の仕事は統治することであって、軍を指揮することではない」。ナポレオンの下したロシア軍の将軍たちへの評価は的を射たものだったが、それでも彼はロシア遠征に失敗することになるのだった。

 

ボロジノ会戦

 ロシア軍は指揮系統が混乱したまま、スモーレンスク(モスクワ南西350kmの都市)を放棄したため、ボロジノ(モスクワ南西100km)に至るまでロシア軍に遭遇しなかった。偶然、左翼にあたるシュヴァルジノ堡塁を発見したため、ボロジノ会戦では、ロシア軍の左翼と、ナポレオンの本隊が激突する結果になった。

 ボロジノでのナポレオンの作戦は、あいまいで要を得ないものだった。配置された砲兵隊は、ロシアの陣地に砲撃が届かなかったし、ポニャトフスキーが森へ入り、ロシアの左翼に迂回する作戦は、トゥチコフ軍と遭遇したため、不可能となった。コンパン将軍が森の中を通って第一堡塁を占領するはずだったが、撃退されてしまった。ボロジノ会戦のとき、ナポレオンは、離れたセヴァルジノ堡塁におり、前線の様子を見ることができず、誤った報告に基づいて指令を出していたのだった。

 

 前日、ボーセ相手に軽口をたたき、ポンスを飲んでいる。

 

 当日、鼻風邪をひいていた。ナポレオンが後方にいたため、前線では将軍の指示なしに判断が行われた。前線から来た将軍が、旧近衛師団を戦闘に注ぎ込むことを進言したが、ナポレオンのそばにいたネイとベルチエは、せせら笑った。ボロジノ会戦で近衛師団を注ぎ込めば勝利できたと歴史家は言うが、二十名の股肱の将軍の死傷を知らされ、意気消沈したフランス軍には、それができなかった(というのがトルストイの考え)。一方、ロシア軍は兵の半数を失っても、なお立ちはだかった。強力な精神力をもつロシアの軍に、フランスは恐怖したのだそうだ。トルストイは、こういう過剰な表現を、やはり随所で抑えることができずにいる。

 

モスクワ入場

 モスクワ入城を前に、ナポレオンは寛容を基調にすることに決めて、首都の使節団を待つが、いつまでたっても現れない。モスクワが空っぽであると知らされ、「モスクワが空か。まったく考えられぬことだ!」。モスクワに入ったナポレオンは、取りうる選択肢のうち最も破滅的な道を選んだ。モスクワまで進むことができたのは、彼が天才だからではなく、「彼の個人的な行動が、事件の進展を指導したもろもろの法則に合致したに過ぎない」(それを好意的に解するか、否定的に解するかは、解釈にすぎない)。

 モスクワで、クレムリンの強化を命じ、略奪をやめさせ、軍紀を回復させようとしたが、無駄だった。無用なモスクワ滞在が長引くほど、軍は崩壊していったが、彼らは動かなった。スモーレンスクで輜重隊が急襲された事件と、タルーチノの戦闘で、不意に恐怖に肝をつぶされ、逃走を開始した。しかし、故国はあまりに遠かった。ロシア軍は、退路を遮断して、捕捉殲滅しようと気負ったが、クトゥーゾフだけは、攻撃を抑えるのに全力を挙げた。「全員が、どこへ行くのか、何のために行くのか、自分でもわからず、ただ歩いていた。誰よりもそれを知らなかったのは、天才ナポレオンだった。彼に指図する者は誰もいなかったからである」。

 

 【冒頭でのみんなからの評価】

・モルトマール子爵…権力を握ってから、それを殺人に利用したりせず、合法的に王に返上すべきだった。われわれは自由を望んだのに、ボナパルトは自由を亡ぼした。ブリュメール十八日のクーデターはだまし討ちであり、偉大な人物の行為にふさわしくない。

・ピエール…アンギャン公の処刑は国家にとっての必要事だった。その行為の責任をわが身ひとつに引き受けたことに、精神の偉大さを見出す。全体の幸福のために、彼は一人の人間の命の前に止まることはできなかった。市民の平等・言論と出版の自由を守るために権力を獲得した。

・リーザ…エジプト遠征で多数の捕虜を殺したのは?

・アンナ・パーヴロヴナ…一人の人間を、裁判もなければ罪状もなしでただ処刑することができるなんて。

・アンドレイ…行為が個人的なものか、指揮官としてのものか、皇帝としてのものかで分ける必要がある。アルコレ橋のナポレオン、ヤッファの病院でペスト患者に手を差し伸べたナポレオン派、偉大な人物と認めざるを得ません。しかし、他の行為は正当化しづらい。

・ロストフ伯爵…よくもあの男は一中尉の身分から皇帝の位まで上り詰めたものだと、皆そればっかり考えているんだよ。なに、結構なことじゃないか。 

・シンシン…どうしてわが国は、ボナパルトと戦うなんて災難を背負いこんだんでしょうな。彼はすでにオーストリアの鼻っ柱を折ってみせました。今度はわが国の晩にならないといいのですがな。

・ボルコンスキー老公爵…まあお前あたりがとっちめてやらんとな、さもないとあの男は今にわれわれのことも自分の臣民扱いしかねんからな。ボナパルトは幸せな星のもとに生まれついたのさ。兵隊も揃って優秀だしな。

・ミハイル・イワーノヴィチ…すばらしい戦略家。

・マドモワゼル・ブリエンヌ…あら、公爵さま、私はボナパルト派ではありませんわ。